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建物

雨落ち

Q:古民家の軒下にある石を敷詰めたものは何ですか?
A:雨落ち(あまおち)と云います。建物の屋根から雨だれの落ちるところ。軒下の真下にあたる部分。
 現代の通常の家屋では屋根に降った雨は軒先に集める軒樋と流下する縦樋や鎖樋で処理されます。(これらを総称して雨落としと云います)。 しかし樋は枯葉がつまりやすいため、軒先の雨を自然に落して地上で処理する方法がとられます。この場合、雨水が跳ねないように、地面が掘られないように雨水の落ちる場所に玉砂利や小石を敷き、 その下に排水路を作ります。 これが雨落ちです。
 ふじやま公園の古民家の軒下に径4~10cm の玉砂利を深さ 10~15 cm 自然の形に敷き込んでいます。幅は建物側に約 35 cm 外側に約15cmになっています。 雨水は雨落ち内の透水管を通って園内の排水管に排水されます。 雨落ちは樋と違って上品さを醸しだします。

雨戸の戸締り

Q:古民家の雨戸の戸締りの名称は?
A:雨戸は窓や出入口の外側に設ける和風の引戸です。
 通常は戸袋に納め、夜間や風雨のときに一本溝の敷居と鴨居の間を送って縦締めます。風雨からの保護、盗難の防止、遮光や保温などの役割を果たしています。框(カマチ)、桟、板から構成され、通常3枚又は4枚以上で、張りたてます。
 戸締りは『猿』と云い、最後の1枚だけに、上げ猿と下げ猿を付けます。これは板戸の上桟や下桟につける細木のことで、上下に動き、鴨居と敷居の穴に入ります。古民家主屋には5連、28 枚あり、上げ猿・下げ猿が5組あります。
 なお古民家の雨戸には印籠決(インロウシャクリ:凹凸の接合部)が施工されており、全部の雨戸を一体化・連結しています。

板戸

 主屋内の板戸
 板戸は木枠 (桟あるいは框とも)に木の板をはめ込んだ引戸の総称です。外部との境をしめる大戸や雨戸と室内間仕切り用の板戸があります。
 木枠の中に面材として無垢の一枚板を使用した「鏡板」または「鏡板戸」、 鏡戸に補強あるいは意匠的な理由で中桟を入れたものを「帯戸」、上桟と下桟の枠組みに舞良子(マイラコ)と呼ばれる細い横桟を複数取り付けたものを「舞良戸」などさまざまの種類があります。民家においては、かつては板戸が広く用いられましたが襖や障子が普及するにつれ、広間と奥の間仕切りや納戸の出入り口などに残りました。板戸は丈夫で重く立て付けが悪くなることや光を通さないので室内が暗くなる欠点があります。密閉性や保温が良いという点もあります。
 古民家主屋では下座敷と中之間、中之間と広間の間仕切りに鏡板戸が用いられています。下座敷-中之間は鏡戸で欅の一枚板(厚さ約1.5cm)が、中之間-広間は二枚をはぎ合わせたものです。納戸にも鏡板戸が用いられています。下座敷と式台の境に舞良戸が使用されています。来園の際には各種の板戸の比較や、下座敷の板戸の重厚性を実感してください。
 なお雨戸については戸締りを第180号で説明しています。

囲炉裏焚きと茅葺屋根の寿命

Q:囲炉裏の煙が茅葺屋根の寿命と関係があると聞きますが。
A:囲炉裏では通常広葉樹の雑木薪が焚かれます。薪の燃焼からの煙は大部分が炭酸ガスと水分:僅かに(数%)含まれる有機物のおよそ半分が有機酸(酢酸など)です。
 これらの有機物を含む煙の色は淡褐色あるいは淡青色で刺激臭(甘酸っぱい)があり、きわだ煙と云われます。これらの有機物は、茅等の屋根材の表面を膜状に覆い、外部からの雑菌の進入を防止しかつ雑菌や虫を殺し、さらには茅に含まれる油脂分の酸化を防止します。
 煙の効果は3時間以上の継続によって顕著になります。この効果により茅葺屋根の寿命は30年以上にもなります。
 旧小岩井家の場合は月3回半日囲炉裏焚きを行っています。茅葺屋根の寿命をなるべく長くするためには囲炉裏焚きの頻度と時間の増大が望まれます。囲炉裏焚きのボランティアを募集します。

隠居部屋

Q:古民家の工作棟はかつての隠居部屋の位置に建てられたとのことですが、隠居部屋とは何ですか?
A:隠居とは、一般的に家長が権限や義務,関与などを次代に譲り、地域社会などに関する社会の第一線から退隠の境遇に入ることです。旧民法では戸主権を家督相続人に譲ることであり種々の規定がありました。
 隠居すると日常生活は後継者を中心とする家族とはある程度独立するので、家族の中に複数の生活単位ができ、住まいを別に設けることがあります。これが別棟隠居であり隠居部屋または隠居屋と呼ばれます。隠居の語義は「隠れて居る」ということで、その内容は時代・地域・階層によってかなりの相違がみられます。
 旧小岩井家の解体調査時の配置図には主屋南西側に隠居部屋が記載されています。そして移築再建時にほぼ同じ位置に工作棟を設け、概観や内部構造でも江戸時代末期の旧付属家屋を意図し、現在のような工作棟が建てられました。

内蔵

Q :古民家には内蔵がありますがその意味と役割は?
A:「クラ」には漢字として「蔵」と「倉」があります。蔵は隠すという意味があり大事なものを人目につかないようにしまって置くところ、倉は米など穀物や草などを納める建物のように大別されます。内蔵は主屋に接して建てられたもので、主屋と完全に独立して立てられたものは外蔵OO蔵)といわれます。内蔵は主屋への接し方も主屋の屋根に収まっているもの、廊下や土間などで繋がっているものもあり屋敷蔵・座敷蔵ともいわれます。内蔵には大切な財貨、家財道具、商家の場合は重要な商品、文書などを収めるため道具蔵とか文書蔵とも云われました。
 旧小岩井家では明治年間の家相図では土蔵が3棟あり解体移設時、現在の内蔵の位置に文書蔵として土蔵が1棟残されていました。現在の内蔵は新築で2.5 間X2間の面積をもち、主屋と繋ぎ廊下で連絡し、往事の雰囲気を伝え、古民具などを収納・展示しています。

大阪障子

土間と広間との仕切戸 大阪障子
 数年前に土間から広間に上がる境にある仕切戸の名称は何ですかの質問を受けました。これは大阪障子と云います。大阪の商家などにおいて、土間と居室などの仕切戸に使われました。表は格子で裏が組子の脱着可能な障子をケンドン方式で取付けたものです。こったデザインですが、季節や気分に応じて裏側の障子組子をはずせば格子戸に早変わりし、風通しもよくなり、部屋からの景色も一変する、とても機能的な建具です。細い格子を通して明るい店先がよく見える反面、外から暗い中は良く見えません。

『旧小岩井家住宅主屋並びに表門移築復元工事報告書』(以下報告書と略称)主屋解体考察の項の中で「土間の西面は、・・・・ 腰高障子が4枚建て込まれている。」と記載されています。一方「広間は、・・・・ 土間境の建具と思われる腰付き格子戸が4枚見つかった。・・・・」と記載があります。そして報告書では古民家主屋には障子の数は34枚とあり、この仕切戸は障子に分類されています。
 復元後の現状は土間からみると腰高格子戸に見え、広間からみると腰高障子に見えます。広間側から障子の組子を取外すことが出来ます。(時々脱落するので、現在は固定してあります) 主屋見学の際は確かめてください。障子の種類は荒組、桝組、竪繁(タテシゲ)などがあります。ふじやまだより第19号、179号でも解説しています、参考にしてください。

押入れ

Q:公園の古民家には押入れが見当たりませんがなぜですか?
A:旧小岩井家住宅には押入れは設けられていません。押入れは日本の住宅内につくられる物を収納するための場所。通常、奥行を半間、間口は1間が普通です。おもてには襖(フスマ)あるいは板戸を立て、戸は引き戸が一般的です。高さは一般に床から長押(ナゲシ)までで1間程度です。
 押入れは寝具を格納するための空間です。和風住宅では畳の上に布団を敷いて寝ますが、昼間、寝具を格納しておくために、寝所の近くに小部屋(押入れ)を設けました。住宅の間取りに押入れが見られるようになったのは江戸時代中期から末期であり、一般的になったのは明治以降で結構新しいものです。
 寝具として現代のように綿入れ布団を庶民が用いるようになった押入れは綿栽培が盛んになった江戸末期からです。押し入れは貴重な綿入れ布団を格納するものでした。
 旧小岩井家住宅は建築が江戸時代後半で、押入れが一般化する前であり、布団などは他の衣類などと共に、納戸に格納されていたと思われます。納戸は寝具・衣類・道具類を格納する屋内の物置部屋で、寝室にもなりました。旧小岩井家住宅の納戸の広さは6畳です。

折れ釘

Q:内倉の外側に鉤状の金物が見られますが、名前は何でどんな役割がありますか?
A:名前は折れ釘です。一般に蔵の建物は壁をスサ(繊維質のつなぎ材)入り粘土で20cmから 30cmの厚さで塗り外側を漆喰で仕上げます。折れ釘は角柱の芯に打込まれているので、釘の長さは30cmから 40cmに達する と思われます。折れ釘は第一の役割は蔵の壁や瓦を補修する時に足場を作る部材になることです。

 第二の役割は蔵の壁や漆喰を風雨から守るための板材で蔵の周りを囲いますが(腰板や下見板という)これを取付け、火災の場合桟木を外し壁を露出させることです。
 旧小岩井家の内蔵には16mm角の折れ釘が北、西、南側に植え中下3段、 各4本ずつ36本、東側に上段に2本あり合計38本あります。東壁の下半分には渡り廊下と外側に下見板が、北西南の3壁には下見板の代わりに、今はよしずが壁面保護のため取付けられています。

かまどの灰

Q:かまどの下の灰まで俺のものと云う言葉がありますが灰の効用は?
A:生活のエネルギーがガスや電気の普及によって大きく変わりました。変わったことの具体的なことの一つとしては暮らしの中から灰が出なくなったことがあります。
 かつては台所や居間には囲炉裏や火鉢が、土間にはかまどがあり煮炊き、暖房、照明のために薪・ソダ・落ち葉などを燃やし、灰ができました。さらには枯れ草・落ち葉などを燃やして積極的に灰を作っていました。植物の灰は少量のリン酸・カルシウムのほか、炭酸カリを主成分とし重要なカリ肥料源です。これらはほとんど水溶性で、強いアルカリ性を示します。
 灰は肥料になるほかに、水に溶かした上澄みを洗濯に使用したり、こんにゃくの凝固剤、山菜類のあく抜、陶器のうわぐすりや酒造など多くの分野で使われてきました。また灰は耐熱性かつ通気性があり、囲炉裏や火鉢に用いられ火種の保存に役立ってきました。昔は家庭の灰を回収し、染物材料や肥料として売買の対象になっていました。
 古民家の囲炉裏や火鉢の灰を集めるのに苦労しました。

かまどの煙突

Q:古民家のかまどに煙突がありませんが何故ですか?
A:カマドは煮炊きをする燃焼装置です。煙突は燃焼装置の燃焼ガスを大気中に放出させる器具で、同時に燃焼に必要な空気を燃焼装置に吸込む役目を持っています。煙突は明治以前の日本家屋には見たらず、カマドの煙は屋内を通って天窓や煙出しから外に出していました。煙突が無かったのは煙突に適する材料が無かったためです。日本の煙突の始まりは明治になってから工場建築に始まり、民家のカマドに煙突が付けられるのは大正になってからでした。煙突が無かったことのプラスは薪を効率的に利用でき、火災の危険性が少なく、煙の充満により蚊などの害虫の侵入を防止するなどです。一方健康上の問題や薪を上手に燃やす工夫が必要となり、カマドに欠かせない道具として火吹竹があります。
 旧小岩井家のカマドにも煙突は勿論ありません。土間の隅の棚に昭和期のものと思われる鋳鉄製のカマドがありますが、煙突を取付ける口があります。比較してください。

神棚

Q:公園の古民家の神棚はどこにありますか?
A:広間にあります。
 神棚は住居の中に設けられ神霊を祀る信仰用具の一種です。鴨居付近に取付けた棚に屋形型や宮殿型の小祠を置くのが一般的です。小祠の中には伊勢神宮の大麻(邪霊を祓う役割があるお札)や氏神,鎮守神,産土神などの神札を安置して神体として祀ります。神棚を設ける部屋は家族が団欒する日常生活の場合が多く、客間として用いられる部屋の場合もあります。神棚の向きは東向きか南向きの方角で、かつ大人の目線より高い位置に設けます。二階がある場合は神棚の上を人が歩かないように考慮します。神棚の起源は室町時代末期に伊勢の御師(神人)が配布した大麻を収めることがきっかけと言われています。
 旧小岩井家の神棚は広間の仏間との境、内法上に上げてあり東向きです。厨子二階の床が神棚の上にならないような位置関係にあり、わかりにくいですが広間に座って見上げると幅二間半、奥行一尺半の全体が見えます。また土間の三連のカマドの上には火の神を祀った小さな荒神棚があります。

鴨居と差鴨居

 鴨居は和風建物の開口部の柱間にあり、開口部上端に設けられる橫材です。敷居の対になります。鴨居には下側に溝が彫られており、間仕切りとなる引戸、障子や襖などの建具をはめ込みます。概略の寸法は幅が柱に収まり、高さは5~10cmです。敷居との内法高さは170~180cmです。鴨居は骨組みが完成した後に施工される造作材で、骨組みを構成したり荷重を受ける構造材ではありません。

 差鴨居は梁に鴨居の役割を持たしたものです。通常、鴨居は柱間1間ごと取付けます。間取りや、使い勝手や意匠の関係から柱を省略したい場合、構造材である梁をも兼ねる差鴨居を用います。
 旧小岩井家住宅主屋では差鴨居が土間と広間、広間と茶の間、広間と中之間、中之間と下座敷、下座敷と式台などに見られます。いずれも差鴨居の高さ40~50cm、巾は2間(3.6m)です。差鴨居は各部屋が広々とした感じと共に旧名主宅の豪勢さ感じさせます。大黒柱と差鴨居の力強い組合せを確かめてください。

茅葺屋根の概要

ふじやま公園古民家の茅葺き屋根の概要 古民家歴史部会 木島健司

 茅葺きの屋根は新たに葺き替えられました 。 主屋に要した茅の量は4千束(束は両腕で何とか抱えられる量です)で、平成13年冬に刈り取った御殿場産のやまかやを使用しています。長屋門は1千束で平成12年冬に刈り取った宮城産を使用しています。茅を支える竹は何れも平成13年9月に伐採した熊本産を使用しています。
 勾配は45゜軒先で外側に凸の丸みをつけています。
 棟はステンレス板を敷き、シタマル(長茅)、杉皮、グシズ(竹管)、瓦の順で構成されています。
 茅は1.5mから1.8mの長さがあります。雨に濡れるのは表面の10cm程度で、雨・カビ・鳥・虫等で劣化すると其の部分を引き出し新しい茅を詰め込みます。茅や竹はイロリやカマドの煙で常に燻されカビや虫から守られます。これらの作業を続ければ20年は使用できるといわれています。
 イロリ守ボランティア班の方がイロリで火を焚き煙で燻 しています。

茅葺屋根の寿命

Q:茅葺屋根は何年ぐらいもちますか
A:茅葺屋根の葺替えは普通 20~30 年毎に行われるといわれています。実際は手間をかけないですむのは10年未満です。
 陽の当たらない北側の面に苔が生えたりして、早くからいたみが見え始めます。そのためいたみの早い部分のみ葺き替える差し茅(サシガヤ)が行われます。やがて全面すべて葺き替える丸葺き(マルブキ)の時期を迎えます。寿命を延長するため囲炉裏などで薪を焚くことが有効といわれています。これは乾燥作用と煙に含まれるタール成分などが茅の表面 を樹脂膜状にコーティングして、外部からの雑菌などの進入を防止し、雑菌や昆虫を除去する働きなどで、茅を長持ちさせるからです。いわゆる囲炉裏効果です。
 ふじやま公園の古民家では火災予防の観点から毎日火を焚くことが出来ず、更にカラスによる茅の引抜きもあり、いたみを速めています。すでにサシガヤなど手入れを行っています。寿命延長のためもっと頻繁に囲炉裏やかまどで薪を焚きたいところです。

茅葺屋根のテグス

Q:茅葺屋根に糸のようなものが張っていますが。
A:カラス除けのテグスです。
 カラスは2月下旬ごろから巣作りをはじめ、春の訪れとともに2~3個を産卵し、5~6月にヒナが巣立ちます。巣は12~18 mの高さの木の枝や最近は電柱などに作ります。巣は直径約 50cm、材料は小枝や茅を上手に組合せ、ガッチリとした構造とし、中に木の皮や羽などでなめらかな直径20cmくらいのボール状の産室をつくります。最近は小枝の代わりにクリーニングの針金ハンガーの利用が見受けられます。古民家屋根の茅は格好なかつ豊富な材料です。古民家移築当初はかなりの茅が引抜かれ、移築直後の屋根が見苦しい状態になりました。このカラス被害防止にためテグスを張ることにしました。カラスは光りもの、黄色、大きな音、飛行の障害物に敏感に反応し避ける性向がありカラス除けになります。しかしいずれも慣れると効果は低下します。その中で直径1mm前後の光るテグスの障害は効果が継続すると云われています。

 テグスはテグスサンというヤママユ科の昆虫から取出した絹糸腺を酢酸溶液中に漬けてたのち、引伸ばして乾燥して作った釣糸であり、近年はナイロン製が普通になっています。旧小岩井家古民家の主屋、長屋門にナイロン製テグスを張ってから、カラスによる茅の引抜きは減少しました。

かんぬき(閂、貫木)
 古民家長屋門の扉を内側から閉じ固めるための横木が『かんぬき 』 です。 閂はつくり字、 貫木は当て字です。 かんぬきは、門の出入口の両開き戸(観音開き戸)の左右の扉に付けた金具に差し通し、両扉を一体化して戸締りをします。 普通は堅い木の角棒です。 かんぬきは、素朴な発想に基づく戸締り用具なので古今東 西広く用いられています。 日本では平安後期から用いられ、開き戸が一般化してから出入り口に用いられるようになったと思われます。かんぬきを、保持する金物・箱金物を『かんぬきかすがい』と云い、扉の表側に取付けるかすがいの端を隠すため饅頭金具を取付けます。これは門の重要な装飾の一部です。
 古民家長屋門のかんぬきは欅材で、寸法は7.4cm角、長さ144cm、重さ5.1kgです。夕方のかんぬきによる戸締り作業はちょっとした力仕事ですが、力強い安心感があります。

木組

木組(木材利用の伝統技術)
 旧小岩井家住宅(古民家)は平成9年から解体・燻蒸し、現在地に移築・復原したものです。 復原に当たって土台部分の腐朽などにより再使用出来ないものがあり、部材の再使用率は約6割でした。腐朽が部分的なものはそこだけ新材で置換えています。旧材と新材を接合した柱などの部材がいくつかあります。接合は接着剤や金具などを使用しない伝統工法の『木組』が用いられています。注意してみると実例を見ることが出来ます。主屋の味噌蔵の柱、長屋門の門柱や納屋の入口の柱などです。写真は納屋入口の柱です。更に穀倉にはボランティアが製作・寄贈した各種の木組を展示しています。これらは古民家の見所の一つです。

釘隠し

Q:主屋座敷の長押(なげし)に金物が取付けられていますが、なんですか?
A:この金物は「釘隠し」または「釘隠し金具」とも言い、建築用化粧金具の一種です。書院造りや格式のある和風住宅において、長押(なげし)と柱やつり束の交差部分を打ち留める大釘を使いますが、その頭を隠すため、釘の上にこれをかぶせました。実際はエ法の進歩により長押は装飾となり、釘で止める必要もなくなり「釘隠し」は実用品から装飾品となりました。材質は鉄、銅、木、陶器、七宝などが用いられました。形は古くは単純な丸型でしたが時代とともに種々の形のものが現れ工芸品的になり装飾性が高まりました。

 旧小岩井家の上座敷に松模様が5個、中座敷に竹模様が4個、下座敷に竹模様が1個あります。「釘隠し」があることは座敷の格式の高さを示していると言えるでしょう。

潜り戸

Q:主屋正面大戸に付いている小さな戸は何ですか?
A:潜り戸(くぐり戸)です。潜るとは頭を下げて進むことです。頭を下げなければ通れないような、高さが低く、幅の狭い出入口に設ける戸を潜り戸と云います。潜り戸の例として、門の扉などに設けて潜って出入りする小さい戸や茶室のにじりぐちの戸などがあります。農漁村の民家の出入口は土間回り正面(日常)、背面(炊事)の出入口がありました。通常土間の出入口は一間巾の片引きの大戸(潜り戸付)を建て、普段は潜り戸を利用していました。
 旧小岩井家住宅には表門(長屋門)と正面大戸に潜り戸が設けられています。現在は来園者のために大戸を開けてありますが、当時は写真のように大戸を閉め、潜り戸を使っていました。大戸本体は旧材を用いていますが、潜り戸は腐朽していたため、取替えられています。

草葺屋根

 屋根は雨露を防ぐ役割のほかに、屋根が家屋建物の第一印象を決めると云われるように形・姿も重要です。
 瓦葺が出るまでは日本の屋根は草葺が一般的でした。この場合の「草」は草本系植物の総称でありイネ科やカヤツリグサ科の茅(植物名はススキ)、チガヤ、オギ、スゲ、稲藁、小麦藁であり、水辺に生える葦(ヨシとも呼ぶ)も用いられました。これらの中で茅が多用されましたので、茅葺きが草葺屋根の代表となってきました。
 茅や葦は油分が多く耐久性が高く茅葺は日向で三十年、日陰で二十五年前後と言われます。稲藁は水分を吸収するので耐久性は茅の十分のーです。主屋の茅は御殿場で刈られたヤマカヤで約四千束(一束は両手で抱える量)を使用しました。茅の長さは1.5~1.8mのものを使用し、雨に濡れるのは外から10cm程度です。雨、カビ、鳥、虫などで劣化するとその部分を引出し新しい茅を交換・詰込みます。屋根の勾配は45度前後であり、緩くなると水切れが十分でなくなり雨漏りを生じます。草葺屋根は吸音性があり外部の音を遮断するという特徴がありますが、火に弱いという欠点があり、現在では建築基準法により、草葺屋根は一般には認められません。

沓脱石

Q:縁側と前庭の間にある大きな石は何ですか?
A:沓脱石(くつぬぎいし)です。室内から庭への出入りをしやすくために、縁側や式台などの前に置き、履物を脱いでそこに置いたり、踏み台にしたりする石です。これは建物と庭をつなぐ重要な役割を持っています。室内から庭を眺めるとき、最初に目にする石であり、その石を通して庭を見ることになるので、沓脱石は庭の前景とも言えます。これは庭に奥行きを与え、軒内を美的に構成しています。
 かつては多くの住宅に据えられていましたが、住宅様式が変わり、近頃はあまり使われなくなりました。ウッドデッキなど木を使った構造物を用いる方法もありますが、石と違って朽ちてしまう懸念があります。
 旧小岩井家では中の間と前庭の間及び上座敷・中座敷と日本庭園との間に据えられています。空間を引締め古民家に品格を与えています。

煙出し

Q:古民家主屋屋根の上にある小屋状のものは何ですか?
A:煙出しです。土間のカマドや囲炉裏で薪やわらを燃やして煮炊きや暖をとっていた少し前までの時代では、屋根裏に立ち込める煙を排出するために屋根や妻壁(切妻屋根の両端の三角の部分)に換気用の穴を開けざるを得ませんでした。穴を単純に開けると雨や雪が舞込んだり,煙が風によって逆流したりします。日常生活の必要性から工夫を重ね、煙出しが設けられました。生活から必要とされる機能を単に合理的に解決するだけでなく、意匠がすぐれたものが考案されました。

 旧小岩井家住宅では、茶の間と広間の境上に設けられています。桁行91 cm、梁間114cm、屋根は瓦葺になっています。寄棟風茅葺屋根にアクセントをつけています。

古民家10の見所

公園運営委員会事務局 平賀眞之
 古民家には、先人たちの知恵がたくさん詰まっています。以下は、その名残を探るヒントです。
1.家業と住空間(職住一処)
 間取りは、客間(出居)、寝間、居間(常居)の三間に土間を加えた基本型が一般的ですが、この古民家は、さらに西側に三間があり、中流武家の構えと庄屋の造りを兼ね備えています。
2.地場の材料を賢く使い分ける民家
 イネ科植物の活躍、士石砂の鉱物、2~3年草木(カヤ、ワラ、紙、イグサ、ヨシ)に木材です。(耐用年数の短い付属建物は黒木を使う)
3.陽光と通風
 室内へは、庭からの反射が障子を透かして、ほの明るくなり、夏を見越して通風をよくしています。
4.木材の使い方の妙(樹種の選択、力加減、継ぎ手、柔構造)
5.「貫ー小舞ー真カベ」の粘り強さの秘密(耐震)
6.引き違い戸(動くカベ)が広い空間を演出する。
7.結び、楔(くさび)、ほぞ、各種仕口による接続方法
8.リサイクルと補修(社会循環、損傷部位の取替え)
9.一貫生産して徹底活用する。(モノを大切にする美徳)
1 0.自然と共生し、火を守り、水が生命をつなぐ、その持続可能な「くらし」の中心に主屋があった。

 この50年間に、失ったものを想い、時代を耐えた古民家から、安らぎと、心豊さを感じ取ってください。

古民家主屋の大きさ

 旧小岩井家住宅(古民家)は長屋門からみた大きさに驚かされます。古民家の大きさは移築復原工事報告書のp.4に「建物の規模は桁行9.5間、梁間5間の寄棟茅葺きで、四囲に下屋を設けている」とあります。桁行とは古民家を前庭から見たときの長手方向の両端の柱の間隔であり、梁間は短手方向(奥行)の両端の柱の距離です。これらの柱の内部面積は9.5×5=47.5坪=約157m2Ⓐとなります。同じ報告書p.10に解体保存工事仕様書に建物概要,主屋は236.27m2(71.4坪Ⓑ)とあります。更に同書p.17に2階床組の記述があり二階の面積は24.75坪(81.9m2Ⓒ)とあります。
Ⓐ+Ⓒ=72.25坪(約238m2)はⒷとほぼ同じ値になります。右の平面図中○は四隅の柱です。
 まとめると古民家の床面積は1階で約48坪、厨子2階を含めた延べ面積は約72坪となり、普通の農家より大きな数字です。ちなみに高さは、地面から棟木まで30尺(約9.2m)とあります。その上に煙出しが追加されます。
 なお、建物において梁は柱の頂部と組合せて屋根の小屋組みの荷重を受けるため一定の短い間隔で配置します。桁は柱・梁の組合せを横方向に繋ぎ。その数や長さで建物の大きさが決まります。

古民家の概略

 長屋門・主屋とも萱葺き屋根で昔の面影をそのまま残しています。長屋門の大扉には銹金物(かざりかなもの・鉄鋲)が打ってあり、大変重厚な造りになっています。右側は板敷きの穀蔵で年貢米の一時置場、また補修用の萱など保管されていました。穀蔵には二階が付いています。左側は土間の納屋で農具などの置場などになっていました。
 主屋には式台があり武家の格式を備えています。
 下座敷には槍床があり、中座敷は跳ね上げ式の壁があります。上座敷は正客を迎える書院造りになっています。
 土間には大きな「かまど」が三つあり、板の間(茶の間)には「いろり」があり、自在鍵があります。水屋には普通の「かまど」が二つ並んでいます。
 上部は萱葺き大屋根を支える大きな松ノ木の梁(はり)が見えます。また、萱葺きの裏側も見えます。当家の二階は製薬の作業をしていたとのことです。

古民家の設備・備品概要

 長屋門大扉は必要な時だけ開門し、通常は右側の潜り戸から出入していました。主屋士間の鼈(かまど)には大釜、大鍋が置かれ大勢の賄いが可能です。板の間の鼈には普通の釜が置かれ、水屋と共に台所として使われていたと思われます。水屋の脇には食器や食材を入れる戸棚が造り付けてあります。
 いろりには自在鍵があり鉄瓶や鍋を掛け煮炊きができます。ただ、今ある自在鍵は鍋をかける重量に耐えられないのが残念です。竃やいろりの煙は茅を燻し(いぶし)屋根を保護します。この煙は屋根棟の煙出しから排出されます。
 当家には土蔵が7棟有りましたが、内蔵として1棟だけ新設されました。上座敷の奥廊下を隔て、別棟に内便所がありますが、使用人は外便所を使っていました。

古民家の戸締り

Q:古民家に鍵はありましたか? 戸締りはどのようにしましたか?
A:家の戸、門や蔵の扉などを無断で開けて侵入されたりすることを防ぐための装置が錠と鍵です。錠(錠前、ロック)はしっかりと閉じるための金属製の器具、鍵(キー)は錠を開け閉めする器具です。旧小岩井家において用いられている戸締り器具の例をあげます。雨戸にはサル(猿)が用いられています。

 式台から下座敷への引き戸に心張棒が用いられています。これは斜めに傾けて出入口の引き戸部位の片方を固定した状態で使用します。つっかえ棒、つっぱり棒とも言います。

 長屋門にはかんぬきが用いられています。これは門や家屋の出入口の扉を閉ざすための横木であ
り、左右の扉に付けた金具に通して開かないようにします。
 そのほかに穀蔵の引き戸に錠前が用いられています。

差鴨居

Q:下座敷と中の間との間の鴨居は大きく立派な部材ですが?
A:この鴨居は断面の高さが大きく、通常の鴨居の役目に加え、屋根の部分を支える梁の役目を兼ねており、「差鴨居(さしかもい)」と云います。
 差鴨居も敷居と一対になって引き戸、ふすま、障子など建具の枠となり、通常の鴨居と同じ役目を果たしています。しかし差鴨居は通常の鴨居よりも背(高さ)が大きく、柱にほぞ差しとし、柱間の広い部分に梁として構造体の役割をも果たしています。一般的な寸法は支える柱間が 1.5間(2.7m)から3間(5.4m)程度に用いられ、背(高さ)が1尺(30 ㎝)から2尺(60 ㎝)程度です。
 旧小岩井家住宅では差鴨居が7ヶ所あり、主に南北方向に用いられています。下座敷と中の間との間にある差鴨居は柱間が3.6 m、高さが 39cm、幅が 14cm です。その他の差鴨居も一般的な寸法であり、古民家に重量感と安定感を与えています。例えば大黒柱には二方からの差鴨居が差込まれていますが、まさしく大黒柱と共に主屋を支えています。

座敷の壁の色

Q:上,中,下座敷の壁の色は赤色(ベンガラ色)になっていますが何故ですか?
A:日本においては古墳内石櫛、寺社の内殿・内陣が彩色されることはありましたが、一般家屋の内部壁は土色が昔から続いてきました。書院造りなど内壁に白色が用いられることがありましたが、費用と技術から一部の階層のみに限られました。
 赤色壁は桃山時代の茶人、古田織部が数寄屋壁に赤土を使ったのが最初で、その後、桂離宮の小壁にも赤色系の土壁が使われ、白色壁に代わり色壁が流行し始めました。関西地区には良質の色
土を産出し,色土を上塗りする技術とともに全国に広がりました。地方によっては赤色の壁は貴人・客人を迎える客室に用いられました。しかし江戸時代では一般庶民には許されませんでした。
 一方、「赤」は「大」+「火」の会意文字で、大いに燃える火の色を表します。火には罪や檬れを祓い清め、慶び.魔よけの意味を表し人生の節目に赤色が登場します。赤色の原料のベンガラ・朱は防腐・防虫の役目があります。
 旧小岩井家の座敷の壁においての赤色が使われていることも同じ理由と思われます。

敷居

Q:敷居は踏んではいけないものされていますがなぜですか?
A:敷居は襖や障子などの建具を立込むための開口部の下部に取付けられる横木です。昔は閾(シキミ)といい、門戸の内外の区画を設けるために敷く横木を意味しました。これは屋内と外界との境界すなわち結界になっています。一般の家屋にはいくつかの敷居がありますが、特に玄関の敷居を踏んだりその上に立つことを嫌います。これは、結界を破壊することになるからです。物理的には引戸やふすまの立付けが悪くなり、傷むからです。また敷居を踏むことはその家の家長の頭を踏みつけることと同じという古くからの言い伝えもあるからです。
 旧小岩井家の大戸の敷居は18cmX14cmのヒバ材が用いられていたようです。

式台

Q:主屋に式台がありますが役割は何ですか?
A :式台とは、一般的には玄関前の 1段低くなった式板をいいます。
 式台のある玄関を式台玄関と云い、もともとは武家屋敷(厳密には侍屋敷)で公式の来客と送迎の挨拶を行うところでした。駕籠に乗るための玄関の床板を低くしたものです。本来は書院造りにて、「お客様の送迎の挨拶をする所」を色代(しきだい)と呼び、これが式台と呼ばれるようになったものです。 17~18世紀初めにかけて武士階級で一般化しました。民家では江戸後期まで許されませんでしたが村役人層で役人の出入口用に設けることが許されました。
 旧小岩井家主屋の式台は巾 2間,奥行き半間で 8枚の欅の段板と中間の桓があり,床の高い下座敷に上がりやすくなっています。式台は高齢者社会の時代を迎えてバリアフリーの玄関として見直されつつあります。

自在カギ

Q:囲炉裏で鉄瓶を吊下げているものはなんです?
A:自在カギです。
 囲炉裏は暖房、照明、乾燥などの役割を果たしていましたが食べ物の調理も重要な役割でした。鍋や鉄瓶を吊下げる自在カギは,鞘と呼ばれる竹筒にカギ棒を通し,穴の空いている調節用の横木(猿とも云う)を縄などで取付けてあります。横木を水平にすると穴が真直ぐになってカギ棒が上下に動かすことが出来,斜めにするとカギ棒が穴の角での摩擦抵抗を利用して固定する仕組みになっています。
 自在カギに鍋を掛け,囲炉裏の火の上に吊るし,火と鍋の距離を自在調節出来ることが名前の由来です。煮炊きや保温を容易にすることが出来、生活の知恵が生んだ優秀な調理の補助器具です。
 古民家にある自在カギは典型的な構造です。鞘である竹筒の黒光りは過ぎし日の活躍を物語っています。ぜひご覧ください。

葴子梁

箴子梁(しんしばり)
Q:パンフレットにある箴子梁の箴子(シンシ)の意味は何ですか?
A:主屋の土間から茶の間の上を見上げると大きく曲がった太い梁があり、これが箴子梁です。曲がった材料を用いるのは自然の素材を活用し、装飾的な役割も果たし、更に強度的な利点を生かします。梁は建物の水平方向に架けられ、床や屋根などの垂直方向の力を曲げ応力で受けます。アーチ状の梁は垂直の力の一部を曲がった方向に分散するので、水平な梁部材よりも強いことになります。
 「箴」の字義は「戒め」のほかに竹針、石製の針など「針」があります。一方、洗張りの布を縮まないように先端を尖らした竹製の串で弓形に張る「伸子」という道具があります。曲がりの伸が箴に置換えられたと推測されます。旧小岩井家の箴子梁の材料は建築の際、予め見定めていた松材を用いたとのことです。

障子

Q:障子のある部屋は以外に明るいですが何故ですか?
A:しょうじの「障」は、「遮る」「隔てる」などの意味を持っています。障子は縁の内側、窓、室内の境に建てる建具を総称し、平安の昔から日本人の暮らしに溶込み、生活を豊かにしてきました。
 障子は紙一枚を縦横に組んだ木の格子僑且子)に張っただけの簡単な構造ですが、保温効果、換気性能のほかに光の調整という面でも優れた機能を持っています。和紙を張った障子の場合、光の透過率は5割程度ですがガラスだけの場合よりも室内を明るく感じさせることができます。和紙が光を乱拡散して部屋全体を均等に明るくするためです。夜の障子は壁の一部となり、光を反射して室内の照明効果を大幅に増大し、照明の均質度を高めます。冬暖かく、夏涼しく、省エネに役立ちます。

旧小岩井家の主屋の障子は形状別で腰面、腰付、書院など 34枚組込まれ、桟の組子くみこ枡組ますぐみ横繁よこしげ縦繁たてしげ荒間あらまなどがあり、見比べるのも楽しいと思います。

障子の裏表

Q:障子には表裏(オモテウラ)はありますか?
A:障子は居室と外界をへだてる和風建具の一つです。居室側に組子(格子)が見えるように用い、これが障子の表です。
 外界側の紙だけしか見えない方が裏です。障子は古くは板戸、衝立、襖、屏風など部屋の境や窓・縁などに立てる建具の総称でした。鎌倉時代より製紙技術が発達し、片側に紙を貼った明障子が生れ、障子といえば明障子をさすようになりました。障子は竪桟・上桟・下桟・組子(格子)で構成されています。組子が見える側(表)が室内側になるように入れます。
 組子があることにより柔らかな光を通し、外気や風をさえぎる障子は、暗かった家の中を明るく健康的にし、日本の住宅様式に革命的な居住性の向上をもたらしました。古民家の障子も、室内側に組子があり内側が表です。古民家の障子は組子の形、縦横比はいくつかの種類があります。実際に確かめてください

厨子二階

Q:厨子二階の厨子の意味は何ですか?
A :厨子の読みはッシまたズシが一般的ですがツシが主流のようです。厨子二階は高さの低い屋根裏部屋を指しますが、単なる屋根裏のことをいう場合もあります。物置のほか、蓑蚕部屋や使用人の部屋としても使用されました。地方によって単にツシ(途子、図子、辻子)と呼ばれ、そのほか心ズ、チシ、ッチ、ッシコ、シシ コ、ヌキアゲニ階などと呼ばれました。
 「厨子」とは仏像 、舎利 、経巻、位牌などを安置する開き
扉をつけた仏具のことです。 しかし厨子二階の厨子は、その部分が棟札、神社仏閣のお守り札、護摩札を掲げ安置する空間という意味に由来すると考えられます。
 日本の民家は平屋を旨とする歴史があります。江戸時代には身
分の低い者が高い所に住むことは失礼と一般民家では二階建ては禁止されていました。そのため厨子二階のような中途半端な構造と名称になったものと考えられます。
 旧小岩井家では土間の半分、広間、中の間、仏間、納戸の上にあり、南側と北側に明取り窓があり、使用人の寝室、薬草の乾燥場などに使用されたようです。現在は各種行事の器具・道具を収納しています。

外便所

Q:農家の便所は主屋と別の場所にあったと聞きますが何故ですか?
A:便所は古くカワヤと呼ばれましたが側屋の文字をあて、オモヤの傍らに建てたことによるとの説があります。農家にとって生産性向上のために肥料の調達は重要な要素です。江戸時代の農書にも主要肥料の一つである下肥を確保するため、便所は主屋から離れた屋敷地隅で田畑に近いところに設け,なるべく大小便を集めること、方角は腐敗を促進するため東南の陽気をうけるところ、屋根を付けて雨水を入れないことなどが記されています。また実際、農作業の合間に泥のついたままの姿で利用できる便利な面があります。反面、生活の利便性を犠牲にしていることは否めません。
 旧小岩井家では家相図から屋敷の東南位置に外便所が記されおり、公園の古民家でも同様な位置に来園者用の便所が設置されています。

大黒柱

 大黒柱は家の象徴であり中心となる特別な太い柱です。梁と梁とが交差する力のかかる部分に建てられ構造上一番重要な柱です。この柱は四方向から梁を受けるので、ほかの柱に比べ太くしなければなりません。
これには特別な名称が与えられ、全国的に大黒柱の名が広く用いられています。一般的には大黒柱は土間と板の間との境や、板の間と座敷との境にあります。
 旧小岩井家の場合は土間のほぼ中央左手に土間と板敷きの茶の間と広 間の間の一番目立つ場所で黒光りした威容を誇っています。大黒柱 の語源はかつて恵比寿大黒様を祭ったことによる説などがありますが正確なところはわかっていません。材料には力に強いケヤキ、クリ、ナラ、カシ、サクラなどが用いられます。
 この古民家の大黒柱はケヤキで太さは縦 38cm、横 36cm、高さ 5. 4mです。そして大黒柱の上に一回り細い柱が見えます。この柱は弘化 4年(1847)最後に建替えた時に、以前の大黒柱を転用したものだということです。
 ふじやま公園への移設解体時、大黒柱礎石の下から玉石に経文を記した一字一石経が発掘されました。小岩井家のご主人が諸佛菩薩天神地祇の回向、家内安全子孫繁栄、火盗潜消などを願って、お経の文字を書いたとのことです。(田代眞治)

たたき

Q:テレビで紹介された本郷ふじやま公園の「たたき」とは何ですか?
A:2月7日(日)午後 7 時からの日本テレビ番組「鉄腕ダッシュ」冒頭で、水路の素材になる「たたき」の例として本郷ふじやま公園のたたきの土間が紹介されました。
 たたきは「敲き土(たたきつち)」の略で、赤土・砂利などに消石灰とにがりを混ぜて練り、塗って敲き固めた素材です。三種類の材料を混ぜた合土(あわせつち)から「三和士」と書きます。セメントで土間の床に使われました。明治期に、改良した三和土が、湾港建築や用水路開削などの大規模工事にも用いられました。

たたき

Q:古民家の土間はどのように改修しましたか?
A:今回の改修工事では従来の土間を撤去し、新しい土を入れました。その順序は
①これまでの土を深さ約 15cm 撤去・整地し、
②新しい土(三和土・合土とも言います)を調合、
③これを厚さ3~5cm 土間に敷き、
④足踏み、槌やタコでたたき・締固め、
⑤養生で、これを4回繰返し4層作りました(1層作るのに一昼夜)。

 新しい合土の組成は真砂土:100 kg、壁土:20 kg、消石灰:20 kg、苦汁溶液で、コンパネ上でよく混合します。
これを敷き詰め、叩くことにより消石灰や苦汁の作用により全体が固まります。
 新らしくなった土間は乳白色で清々しい空間を作っています。無理な力を加えず、いつまでも気持ちよく扱いたいものです。
 たたき土(叩土、敲土、三和土)で仕上げた土間を「たたき」ともいいます。

Q:古民家の座敷と居間の畳の目が違いますが?
A:畳は畳表、畳床、畳縁から構成されます。
 私たちが一番目にするのは畳表です。畳表はい草を緯糸に、麻糸や綿糸などを経糸として織られています。一枚の畳表を織るのに、およそ 4,000本~5,000本のい草が使われています。畳表は経糸の数、つまり目の数によって目積表(メセキオモテ)、諸目表(モロオモテ)などがあります。目積表は一目の中に一本の経糸を織込んでいて、目の数は普通品で67目です。諸目表は一目の中に二本の経糸を織込んでいて、普通品は61目です。旧小岩井家座敷の畳表は諸目表で目の数は61目です。居間の畳表は目積表で目の数は74目で普通品より目の数が多く上等品です。

畳の縁

Q:畳の縁を付ける理由は?
A:畳の縁は畳表を畳床につけるときに長手方向の縁を、イグサと直交して縁どる布のことです。畳の縁は畳の角の磨耗を防ぎ、和室の雰囲気を引立て、上品さ・高級感を演出します。
 畳は天然産物であるわらとイグサを主な材料として作られる日本伝統の建材(床構成材料)です。畳はたたむこと、重ねることでもあり、かつては座具、寝具として用いられていましたが現在は主に座敷の床材です。
 畳の製造法はよく乾燥した稲わらを厚さ約5センチに麻糸で縫い固め(畳床)、その表面はイグサを木綿糸で編んだ畳表で覆い、四辺の端を麻糸で縫い固め、布製の縁を付けます。材料は絹、麻、木綿、などが用いられ、色は黒、紺、柿のほか、色々な模様のあるものもあります。色・模様により松江田縁や高麗縁などの名称があります。
 古民家では今年春に畳表替えを行いました。上座敷などの客間の畳には木綿製の黒色の縁が付いています。畳表は熊本産が使われています。中之間などの居住部屋の畳には縁が付かず、琉球表が使用されています。イグサの香りとともに畳縁の有無や畳表の違いを観察して下さい。

茶の間

Q:茶の間は江戸時代にもありましたか?
A:百科事典で調べると、私たちが思い描く「茶の間」または「お茶の間」の言葉は江戸時代には一般的でなっかたと思われます。私たちが思い描く「茶の間」は和風住宅の食事室兼居間であり、丸い卓獣台(チャブダイ)と火鉢に茶箪笥があり、家族の団槃、安楽の場所であります。
このような茶の間なる呼称がいつ生まれたかはっきりしませんが明治中期以降と云われています。
 これらの機能ば江戸時代においては農家である民家の「囲炉裏の間」に近似しています。土間につながり北側の板の間で、普通ここで囲炉裏が設けられていました。常時湯を沸かしており、食事・団槃、時には接客の場として使用され、更にはよなべの仕事の場でもありました。上述のように板敷きでしたが、必要に応じて筵(ムシロ)や葵産(コザ)を敷きました。
 旧小岩井家の茶の間は間口2.5間、奥行き3間です。現在は全部板敷きですが、南側 2間には囲炉裏があり、かつては畳敷き(10畳)になっており、北側 l間は板敷き(5畳相当)でした。奥には頑丈な板作り食器戸棚があります。家族、使用人が箱膳を用いての食事の場で、冬は囲炉裏のほかに火鉢もあったようです。
 「茶の間」は極めて複雑で曖昧な機能を複合している空間でしたが、現在では機能と効率を重んじるリビング+ダイニングを中心とした間取りに移行、「茶の間」は消滅しつつあります。

丁番

Q:長屋門扉開閉の金具の名称は?
A:開閉の金具は肘壺金物と云います。開き戸の扉を支え、開閉できるようにするものです。丁番(ちょうつがい)の一種で古くから使われてきました。開き戸は引き戸より古い形です。
 長屋門に見られるように、門柱に取り付ける壺状の壺金物・肘壺(ひじつぼ)に、観音扉に付けた肘金物・肘金(ひじがね)をさし込んで、丁番のように開閉させます。肘壺金物は観音扉左右の各々上下に計4組が設けられています。

 古民家にある肘壺金物は長屋門潜り戸、納屋横の開き戸や主屋板の間にある戸棚の扉にも用いられています。大きさ、場所により少しずつ形が異なっています。見比べてみては如何ですか。

棟札

 旧小岩井家の家歴
 この古民家は、ふじやまの西側山裾に建っていた小岩井家の住居です。同家は鎌倉幕府創設以来同地に住まわれ、46代続いた旧家と言い伝えられています。
 この建物は1847年(弘化4年)に建てられたと記録された棟札が発見されています。それまで何回か建て替えられていたと推測されますが、その都度、材木が使い廻されてきたと思われる痕跡が各所にありますので相当に古い材木が残っていると考えられます。部材を科学的に調査し、年代を検証できれば新しい発見があるかも知れません。
 上記棟札と一緒に一石一字経の由来を書いた札が発見され、大黒柱の下から法華経のほぽ全文が書かれた小石が 6万数千個発見されました。当主の信仰心の深さが伺われます。
弘化2年(1845)のアメリカ船来航の絵図が残されており、当時の慌しい様子がよくわかります。
 嘉永6年(1853)ペルリーが来航し一行を久里浜足止めするが、万一江戸に出向くことになった場合、同家を休憩所に使うと触れがあり急逮座敷を手入れしたと伝えられています。幸い久里浜から出ること
はなかったが、もしもペルリーが休憩に立ち寄っていたら、同家の歴史に一大工ポックを画していたでしょう。
 同家建築年代を記した棟札および一石一字経の由来を記した札の実物大カラー写真、弘化2年のアメリカ船来航絵図のコピーを古民家内蔵に展示しております。

大黒柱上部の古大黒柱南面に和釘止めされていた棟札:弘化四年(1847)

土間

Q:古民家の土間はかなり広いですが何に使われましたか?
A:農家の場合、土間は建坪の半分近く占めることもあるほど広く色々な目的に使われました。土間は玄関であり、通路であり、中庭であり、客間であり、作業場であり、収穫物の取扱い場所であり、道具置き場であり、部屋でもありました。
土間は日本の古来の民家に見られる形式で土足のまま使う場所で、外と内の中間的な役割を果たしました。土間は建物内で土の部分のことで土(赤土・砂利)、石灰、吾砿ニガリの三つを練ったものを叩き固めたことから三和士タタキとも云います。三和土は土で汚れますが一方では非常に清浄感も漂い、暖かいような冷たいような、あるいは硬いような軟らかいような独特の日本的な空間を作っています。
 通常の出入口である大戸を入るとすぐに土間になり、土間には柱が無い広い空間が広がり、地域によってはニワとも呼ばれ、普通の農家では藁打ち石、臼などが置かれました。土間の奥にはカマドが設けられ、流し台が置かれていました。
 旧小岩井家の土間は間口3.5間、奥行き5.8間、広さは約20坪あり、建坪の三分の一弱あります(座敷部分を除くと二分の一弱)。昭和初期の状況は大戸を入って右側には餅つき道具、石臼が置いてあり、左側にはこもかぶり(写真上)の酒樽がおいてあったとのことです。(田代眞治)

長屋門

Q:長屋門には門番がいましたか?
A:公園の長屋門には門番はいませんでした。長屋門は武家屋敷門として発生した形式です。諸大名が自分の屋敷の周囲に、長屋を建て家臣などを住まわせ、その一部に門を開いて一棟としたものが長屋門の始まりです。長屋門の意匠や構造は、その家の格式や禄高によって細かく決められていました。
 武家屋敷では、門の両側部分に門番の部屋や仲間ちゅうげん部屋が置かれました。また農家では主屋に対して付属屋(物置、作業場など)を一般的に長屋と呼んでいました。特に主屋の前方、街道に面して建て、中間を門とし左右に居室・物置などをおいた形式のものを長屋門、門長屋、門屋などといいました。村内でも格式があり、地侍級の上層有力農民にしか許されませでした。
 旧小岩井家の長屋門は東側が板敷きの穀物入れ、西側が土間の納屋になっています。従って門番はいませんでした。

長屋門

Q:旧小岩井家の長屋門には人が住んでいたのですか?
A:この長屋門には人は住んでいませんでした。
 一般的に、長屋門は武家屋敷を取巻く長屋(家臣の住居)と門の屋根を共通にした建物で、中央に出入口、左右に家臣の住む部屋がありました。また名主など大きな農家では主屋のほかに附属の建物があり、これを長屋(家)と呼びました。特に主屋の前方、道に面したものは長屋門と云い、隠居、若者などが居住することがありました。こうした構えは、村内でも格式のあるものにしか許されませんでした。
 旧小岩井家の長屋門(正式名称は表門)は門、穀倉と納屋から構成され、隠居部屋などは別の建物でした。長屋門は主屋とともに弘化4年(1847)から江戸末期に建てられ、名主の格式を示しています。
 構造は桁行7.5間、梁間2.5間の寄棟茅葺屋根で中央に通路、右側に穀倉、左側に納屋と物置で、各々の桁行は2.5間です。入口の親柱間は1.5間の観音開きとし、左右の脇柱間は各々3尺として右脇に潜り戸をつけています。

長屋門の金物

Q:長屋門の扉に鰻頭金物や入八双金物がありますがその役割は?
A:一般に門の扉は観音扉で内開きです。扉を吊る蝶番に相当するものは鉄製の肘壷を用いています。壷金は回転軸を差込む円筒状の金物で柄が付いていて、扉に取付け目釘で止めます。目釘を隠しかつ扉の破損を防ぐため、コの字形の八双で扉を挟みます。肘金は、回転軸を付けた形状で、柄を門柱に打込んでいます。肘金の抜けを防ぐため、目釘を打ちます。目釘や柄の先端を隠すため半球状の鰻頭金物を取付けます。

 戸締りは閂で行います。閂を通す閂鎚(かんぬきかすがい)は扉に打ちつけ表側に突出ますが、これを隠すため鰻頭金物を扉の表面に取付けます。 旧小岩井家長屋門の金物の役割は釘隠しと扉の強度向上を図るとともに、名主の風格を表す高い装飾性を示しています。

長屋門の壁の色

Q:中庭から見た長屋門の壁のうち、右側(納屋)は漆喰で、左側(穀倉)は荒壁ですが なぜですか?
A:結論的に云うと理由ははっきりしませんが、現状の穀倉の荒壁は年貢米の貯蔵のための調湿性に着目したのかもしれません。日本建築における壁は木舞(コマイ)土壁と呼ばれ、柱に通した貫に木舞を打ち、これに荒土を塗り(荒壁)、中塗り、上塗りを繰返したものです。吸湿性、防腐性や遮音性に富んでいますが、耐水性、耐火性に劣ります。

一般の家屋の壁は荒壁にとどまっていましたが、建物の種類や場所によって塗り壁が用いられるようになりました。塗り壁は上塗りに使われる材料や混ぜる糊料によって、いくつかに分類されます。江戸初期に糊料として海藻が使われるようになり、作業性も向上し、漆喰、色土上塗の施工が容易になり、また上塗りの材料が庶民にも手に入れやすくなり一般家屋にも普及しました。
 旧小岩井家長屋門の壁の解体時と再建後(現状)の比較する次の表となります。

解体時移築後(現状)
正面荒壁漆喰
通路門内外荒壁漆喰
東面漆喰荒壁
北面(納屋)漆喰漆喰
北面(穀倉)漆喰荒壁
通路内側漆喰漆喰
西面荒壁漆喰

長屋門の饅頭金具

Q:長屋門扉の表側の丸いものは何ですか?
A:饅頭金具です。役割は釘隠しと共に装飾です。門扉は裏側に閂を用いて戸締りをします。閂を支えるために門扉の桟に取り付けた箱金物(コ字型の金物)があります。この金物の先端が扉表に出ているのを隠すために飾り金具(釘隠し)を使います。これが饅頭金物(乳金物とも云います)です。このような金物は奈良時代の寺院の扉にも用いられていました。なぜこのような形状になったかはっきりしません。
 旧小岩井家住宅の長屋門の扉には饅頭金具が8個、柱に6個あります。門扉の表と裏を観察すると饅頭金具は箱金物と扉の蝶番に対応した位置にあることが確認できます。

長押

Q:古民家座敷の鴨居の上にある板の名称と役割は?
A:名称は長押(なげし)です。長押は、和風建築で鴨居を支えている柱の間に水平に取付ける化粧部材で、鴨居の上に取付けられているのは通常内法長押と云います。長押は本来柱面に水平に打付けて柱を連結し、建物に働く横力に対抗し変形を防ぐ構造材でした。柱の中間部に貫を通し、柱どうしをしっかり緊結する貫き(ぬき)工法が用いられるようになってから化粧材になりました。水平に連続する長押は、和室の空間を引き締め、建物の格式を高める役割がありました。江戸幕府は千石以下の旗本の住宅に長押を取付けることを禁じました。江戸後期以降は庶民の住宅でも見られるようになりました。大きさとしては、外面は柱面から2cmくらい突出し、上端は厚さ1~1.5cm程です。材料は柱と同材か杉が用いられます。現代の住宅でも長押が見られますが、完全に化粧材で、時によってはハンガーを掛ける場所になることもあります。

 小岩井家住宅で上・中・下座敷に取付けられています。広間や中之間など家人の居住部屋にありません。写真で柱、鴨居、壁との位置関係を示しましたが実物で確かめてください。

引違い戸

Q:障子や襖などの引違い戸は右手前になっていますがその理由は?
A:引違い戸は引き戸の一つで、 2枚の戸を左右のいずれかに引いて開閉する形式の戸です。引違い戸は戸を開けた際に2枚の戸は、重なった状態になり、戸の開閉に場所をとらず簡単に取外せます。引違い戸は日本独特のもので、障子、窓、襖など、様々なところに一般的に用いられています。
 引違い戸を構成する2枚の戸の配置は、必ず右戸が手前で左戸が奥にあります。鎌倉時代の絵巻物(春日権現霊験記)においても右手前に描かれており、日本の伝統的な建築では常識となっています。右手前が常識である理由ははっきりしません。大部分の人が右利きであることが挙げられています。また古くは一般的に左上位であり、左側に高位の人が位置するためであることも指摘されています。
 旧小岩井家の障子・襖・板戸は上記のように開閉しています。

広間の役割

Q:古民家に広間(ヒロマ)がありますがその役割は?
A:江戸時代に建てられた民家は土間と床(居住部)という簡単な間取りから進化して、居住部が広間型三間取みまどりになりました。広間型とは大きな部屋(広間)を中心に各室が配置された型です。広間は土間との間には何の仕切りもなく、ひとつながりの空間となっています。

 広い土間は農作業や炊事、更には物置として使われました。広間は家事、食事、団槃、作業、接客に用いられる多用室で囲炉裏が切られ、神棚が祀られ生活の中心でした。三間取りとは居住部が三つの部屋があるためですが、各部屋の名称は地方によって違い、ヒロマ、ザシキ、オク、ナンド、ダイドコなどで何となく目的が分かる名前です。広間はやがて食事・団簗の部分と表の部分に分かれ四間取り(田の字型)に変化しました。
 旧小岩井家の広間は創建当初においては茶の間と同様に板敷きで、仕切られていましたが一つの部屋として使われたことをうかがわせます。広間には神棚があり、槍掛けがあり、天井は厨子二階があるため低くなっています。広間はある時期から畳敷き(十二畳半)になり、居室または会合の場にも使われたようです。

襖と唐紙

Q:襖(ふすま)と唐紙との違いは何ですか?
A:襖と唐紙は同じもので、唐紙は襖の別称です。襖は、木製骨組みの両面に紙や布をはって仕上げた障子のこと(襖障子が正式呼称)です。ちなみに紙を片面だけにはったものは明障子と云われます。襖は板戸に比べ軽快な建具で、主に和室の間仕切りに使用されます。
 骨組は框、組子、力骨、火打ち板(力板)、引手板とからなり、その周辺に仕上げ材として襖縁が取付けられています。材料はスギ・ヒノキ・クワ・クリなどです。襖紙は鳥の子・奉書・楽水紙などの和紙、あるいは芭蕉布・葛布その他の布類が使われます。昔は襖紙に唐紙と称した中国渡来の紙に模したもので種々の美しい模様のある紙を使った関係上、襖そのものを唐紙障子あるいは単に唐紙と呼ぶようになりました。なお、「ふすま」の語源は御所の寝所(臥す間)を隔てる(障子)からと云われています。
 旧小岩井家住宅では上・中・下座敷の間仕切り、仏間と中の間の間仕切りと2間4枚立が3組、計12枚が使われています。

襖・障子のはめ方

Q:古民家のふすまや障子のはめ込み方には決まりがありますか?
A:古民家に限らず日本家屋では、ふすまや障子などの引違い戸の建込み方(はめ込み方)にはシキタリ(長い間、社会で行われた慣行的事実)があります。引違い戸は日本独特のもので、開き戸に比べると雨仕舞や気密性が劣りますが、戸の開閉に場所をとらず、簡単に取はずしが出来ます。

 二枚の引違い戸の場合は右手前になります。四枚引違い戸の場合は、中央の二枚を部屋の内側(手前)に配置します。二間続きの中仕切りふすまの場合は奥座敷(床の間などがある上位の部屋)内側から見て、中央二枚を内側にします。これらの配置は古民家では上座敷~下座敷、中之間と仏間や茶の間と納戸との間に見ることが出来ます。

風呂場

Q:公園の古民家には風呂が見えませんがどこにありましたか?
A:風呂は元来蒸し風呂であり、現代風の風呂すなわち首まで湯に浸かる風呂の原型となる「据え風呂」(すえぶろ)ば江戸初期にお目見えしたと言われています。湯を入れて入るので、当時は「水風呂」とも呼ばれていました。この形式は湯を桶の中に入れる組込式でしたが、やがて桶の中に鉄の筒を入れて、下から加熱する方式となり近世の風呂(鉄砲風呂)となりました。風呂場は蒸し風呂の流れと水場のため主屋とは別棟が普通でした。
 風呂桶の設置、燃料や水の確保は相当の負担であり、庶民の民家に風呂が普及するのは明治以降でした。個別の家に風呂が出来てもどの家も毎日風呂を焚くことは無く,焚いた家にもらい湯する習慣が長く続きました。数十年前まで風呂桶に水を入れること、薪割りや風呂焚きは子どもの役割でした。
 旧小岩井家でも主屋内には風呂場はなく、昭和初期の記録では横井戸に近く、主屋の北東に突出た二畳弱の建屋にありました。(復元されていません)

前庭

Q:古民家の前庭の役割は?
A:庭は一般に屋敷内にある外部空間をさし、現代では樹木や草花を植えたりして、石や池などを配して住む人の安らぎの場として利用されています。しかしかつては特に農村において、主屋の前の庭(前庭)は農作業を行う場所でした。稲籾などの収穫物の脱穀・乾燥・調製・選別などの作業場であり、むしろなどの乾燥や農具類の整備・修理の場所でした。また、新年を迎える餅つきや端午の節句の鯉のぼりたてるなど年間の行事を執り行う場所でもありました。名主屋敷にあっては年貢米の受入れ、一時保管や搬出準備の公の場所でもありました。
 現在の旧小岩井家住宅の復元後の前庭は約25 m四方で旧屋敷地の庭面積の約2.5倍になっています。これは公園としての各種の行事を考慮したことによります。
 なお、関東や沖縄を除いた地域では屋内の土間をニワと呼ぶことがあります。

間と座敷

Q:古民家の部屋には茶の間と上座敷とがありますが「間」と「座敷」との違いは?
A:「間」は家の内部を何かで仕切った空間であり、かつ「間」は単に空間そのものではなく何かとかの間(あいだ)を意味します。具体的には4本の柱に囲まれた空間を云う説もあります。
 用途から茶の間、居間、客間(応接間)、仏間、中の間、床の間などがあります。床仕上げの違いから土間と床上があり、床上は板の間(板敷きの間)、竹敷、畳の間などがあります。
 「座敷」は円座などすわるための座を敷くこと。またはそのようにした場所であり通常の板敷きの間に対する言葉です。更に時代を経て、座敷とは畳を敷きつめた部屋,特に客間を意味するようになりました。
 旧小岩井家では「間」は用途からの名称です。「座敷」は仕上げ方法の名称で、畳敷きのため客間として用いられ、用途からもその他の「間」と区別されます。

水かめ

Q:水道がない昔は台所に水はどのように手に入れていましたか?
A:台所に不可欠のものは火と水です。火はかまどや囲炉裏で比較的容易に取扱えます。水は水道や水ポンプのない時代には、井戸や水源から運び、それなりの量を貯めておかなければなりませんでした。運ぶためには手桶を用い、貯めるのに水がめ(水甕・水瓶)を用いました。水がめは流しの横に置かれました。水を使用するには柄杓(ヒシャク)を用いました。形状は下部がすぼまり、口縁部が大きく開いた独特の形をしています。この形は柄杓で水を汲み出すのに都合が良く、下がすぼまっていると、底の方に貯まった水を汲出すのに便利です。水がめへは毎朝、お嫁さんや子供が井戸から手桶で往復し補給しました。飲み水から湯沸かし、煮炊き、洗い物まで、炊事で使う一切の水を水がめでまかないました。普段は埃が入らないように木の蓋をしました。
 旧小岩井家古民家の流しの横に水がめが置かれています。上部の直径が42cm、深さ57cm、約65リットルの水を蓄えられます。長屋門穀蔵の左側にも逆さまに置いてあります是非ごらん下さい。

無双窓

Q:古民家の流し場に変わった窓がありますが?
A:無双窓または無双連子れんじ窓といいます。窓とは壁や屋根に設けられる開口部で、人間が出入りしないものをいい、多くの種類があります。無双窓は、二組の幅広板の連子(縦方向に材料を等間隔に並べたもの)からなり、一つの連子を固定し他の連子を左右に移動し、連子幅分が開閉出来る仕組みになっています。閉じると、一面の板張りのように見えます。流しなどに用いられ、通気を抑え採光を微妙に調節できます。このような巧妙・不思議な構造を夢想と称することがあり、夢想が無双になったといわれています。
 旧小岩井家では流し場と内蔵への廊下にあります。

棟札

 旧小岩井家住宅は横浜市指定有形文化財です。その内容は「主屋並びに表門 二棟 附 棟札一枚、埋経札一枚、家相図二枚、経石一括」となっています。棟札とは社寺建築や民家などにおいて、その建物の建築・修繕等の記録として、棟木や梁などの建物内部の高所に取り付ける木の札のことです。
 小岩井家の棟札は解体工事中に発見され、大黒柱の上の束柱(旧大黒柱と推定され屋根を支える短い柱)南面に和釘打ちされていました。棟札には主屋は弘化4年(1847)6月2日に仕事始め、11月23日に上棟したことが記され、大工棟梁と下に8名、小挽と下に3名の建築関係者の名前が記されています。
施主は小岩井六郎兵衛藤原常堅で、年48歳とあります。形は上が山形の五角形、上巾182mm、下152mm、高さ458mmです。実物大の写真が内蔵に額に入れて掲示されています。

槍床

Q:槍床では槍をどのように置いたのですか?
A:槍は戦国時代以降それまでの弓矢に代わって武士の表道具になりました。武士の誇りは「弓馬(きゅうば)の家」「弓矢の誉れ」から、「槍一筋の家」「槍先の功名」と変わり、槍によってたてる戦功を第一とされるようになりました。刃物沙汰になった場合、刀より槍を持出すのが正当な武士の考え方であり、侍屋敷では座敷の欄間に槍を掛ける仕組みになっていました。通常は刃を左に、石突を右に水平に置き右手を伸ばせば届く位置です。外出の際は槍持ちに槍を持たせました。この槍を置く場所が槍床であり、槍架けを用いて水平に置いたと推測します。槍の長さは1間半の小直槍(こすやり)か7尺の手槍程度です。
 旧小岩井家の槍床は下座敷西側にあり、いざと云う時は右手に持ち式台側に向かうことが出来ます。槍床の寸法は巾約2間(354 cm)、奥行き約2尺(59 cm)、床框(ゆかがまち)高さ14cm、床框から落掛(おとしがけ)までの高さ195cmで、小直槍を十分に振える空間を形成しています。

槍床

 槍は戦国時代以降は弓矢に代わって武士の表道具になりました。江戸時代になって旗本など侍が、公式で外出する際は槍持ちに槍を持たせました。領主の旗本が鍛冶ヶ谷村に来たとき、名主宅の上・中・下の客間に滞在しました。
その際、持参した槍は下座敷の槍床にある槍架けに置いたものと推測されます。
 槍は向かって左側を刃先、右側を石突きにおきました。槍は、長さは1間半の少直槍(コスヤリ)か7尺の手槍でした。槍床は下座敷の西側にあり、いざと云う時は右手に持って式台へ向かうことができました。
 槍床の寸法は巾約2間(360 cm)、奥行約2尺(60 cm)、床框(ユカカマチ)高さ4寸(14 cm)、床框から落掛け(オトシガケ)までの高さ約1間(180 cm)で、下座敷を含め槍を十分に振るうことができる空間です。実際にはそのようなことは無かったと思われます。

横井戸

Q:古民家ゾーン東側の石垣に横井戸の看板がありますが説明してください。
A:人間生活に不可欠な水の獲得は古くは川をせき止めたり、天然の泉を利用しました。ついで山麓地帯では山に向って水平に掘る横井戸が、更には平野部では縦井戸が発達しました。以前は横井戸は全国的には丘陵の麓や谷戸に見られ、とくに関東南部の多摩丘陵に沿って普通に見られました。

 小岩井家の横井戸は現在でも利用されています。住宅裏手のふじやまに向って掘られており入口高さ約1.6 m、巾約1.4 m、内部は奥で二股に分かれ、長さははっきりしませんが100m以上とのことです。現在も水が湧出ており飲用以外に利用されています。湧水量は正確にはわかりませんが1時間あたり1立方メートル程度と推測されます。

欄間

Q:主屋上座敷と中座敷の境にある透かしは何ですか?
A:欄間と云います。欄間は日本の木造建築住宅の茶の間、客間等に鴨居または長押と天井との間に設けた開口部です。障子・板透彫り・組物をはめこみ、採光・通風・換気・および装飾用として取付けられました。はじめは寺院や上層階級で用いられましたが江戸中期以降は一般住宅でもみられるようになりました。

 種類として彫刻欄間、筬(オサ)欄間、組子欄間、透彫り欄間などがあります。旧小岩井家主屋の上座敷と中座敷との境のものは筬欄間を建込んでいます。筬欄間とは細い木桟を縦横に組込んだ仕様のもので、絵柄や形は、それぞれ凝った組子細工や千本格子模様があります。旧小岩井家のものは千本格子模様です。
 なお、上座敷の付書院にも障子張りの組子欄間が組込まれれています。比較してみてください。

廊下と縁側

Q:旧小岩井家には廊下と縁側とがありますがどこが違うのですか?
A:廊下は部屋と部屋をつなぎ、他の部屋へ移動するための屋内の細長い空
間です。その機能は、視線と音を遮断し部屋の独立性を高めたり、部屋の外側に外部に面して設ける場合には、気象条件の対する緩衝部分になるなどです。
 縁側は居室の周囲に沿って、軒下に設けられる巾の狭い床板張りの部分です。その機能は出入口、接客・応接、室内環境の調整、収穫物の干し場や一時収納、七夕や十五夜あるいは盆の先祖迎えなどの祭祀などの場と多岐にわたります。また内でもない外でもないという日本家屋独特の曖昧な構造の一つで、自然との接点でもあります。
 旧小岩井家においては、中座敷・上座敷の西側と北側と納戸・板の間の北側に廊下があり広間と中の間の南側に縁側があります。廊下は雨戸の内側にあり、縁側は雨戸の外側にあります。

道具

行火

 現代の暖房器具は電気・ガス・石油を熱源としていますが、かつては薪・炭を用いる囲炉裏・火鉢・行火が用いられていました。特に移動可能で足など下半身を対象とした暖房具として行火は重宝されました。
 行火(または按火)は、上部が丸く、三方に穴があり、もう一方は「火容れ」の出し入れが出来る四角の瓦土製の器です。中にある「火容れ」は土製の円形または角形の容器があり炭や燠を入れました。ふとんを掛けて暖をとりました。行火の「行」は「持ち歩き出来る」という意味です。手足の暖をとる移動式の火炉で地火炉(例えば囲炉裏や掘り炬燵)に対する言葉です。室町時代に使い始められ、江戸時代中期に広がり、明治大正時代に一般化しました。

釜・羽釜

 釜は飯を炊いたり湯を沸かしたりする炊飯・調理用具です。一般的な飯炊き釜は鋳鉄製で鍋よりも底が深く、腰の部分にカマドに掛けて使用するための羽(鍔とも呼ばれる)が付いています。釜はかつてカナエ・マロガナエなどとよばれましたが、現在では飯炊き用の羽釜をさします。木製の分厚い蓋が付属して、飯を蒸(ムラ)します。羽の役目はカマドに掛けるほかに下からの熱を逃がさず,吹きこぼれがカマド内に入らないようにしています。底は丸くなっっており熱が伝わりやすくなっています。

 コメが貴重な江戸時代中頃までの炊飯は、麦や野菜など増量材を入れた糧飯(カテメシ)で多量の水を入れ鍋で煮て、沸騰後にザルに上げるなどして重湯を取り、それを蒸籠などに移して蒸らす「湯取り法」が主流でした。その後、米食の普及やカマドの改良により羽釜が炊飯の主流になりました。現在の羽釜による炊飯は「炊き干し法」と云い、水が多い段階では米を煮る状態、水が少なくなった段階では米を蒸す状態とし、水分は蒸発分以外すべて米に吸収させる方法です。
 古民家主屋の勝手に置きベっついがありアルミ製の羽釜が、土間のカマドに鋳鉄製の大きな羽釜がかかっています。アルミ製の羽釜の寸法は内径28.5cm、深さ24cmで2升5合炊きです。

ザルとカゴ

Q:ざるとかごの違いは?
A:「ざる」も「かご」も竹製品の代表的なものです。
 どちらも、竹の他に籐や柳などの素材を編んで作るものです。「ざる」は比較的浅く、小さめで、網目が細かく、主に調理用具に使われます。「かご」は深く、大きめで、網目は粗く用途は農具、生活用具と多方面にわたります。「かご」は容器として木製より軽く、通気性がよく、中のものが良く見えることから運搬具、収納、保存容器、野菜・食品の水切り、鳥や虫の飼養用具、狩猟・漁労の捕獲用具などに用いられました。

 身の回りの「ざる」はそばの盛り器など活用されていますが水切りなど生活用具としてはステンレス製にとってかわられました。一方、「かご」は古民家納屋には当地の特産品であるパイスケ(港湾関係の運搬具として重宝されました)や背負い籠などが残されています。竹など天然素材を用いる「ざる」や「かご」は典型的なエコです。もっと見直したいものです。

背負子

 背負子(ショイコ)は山村などで薪など重いものを、主に長い距離を運搬するための道具として用いられました。木や竹などを用いた左右の縦棒に背負うための枠を作り、その棒に背負縄を付け、枠に荷を付けるための籠や荷縄を付けたりした背負運搬具です。背負子は強力・歩荷や行商人の運搬専業者、修験者などの宗教家の用いる笈(オイ)からの影響を受けたと思われます。背負い方はリュックのように両肩で支える方法が一般的ですが、他に額や胸前で支える方法もあります。
 山村に貨幣経済が浸透し町場との交易が盛んになって、大量の物資を運搬する必要が生じた江戸後期から盛んに利用されました。道路が整備され車両が普及し、燃料がプロパンガスに変わり背負子がすたれました。近年はアルミ製の登山用や災害時の避難に特化したものも開発されているとか。
 古民家には典型的な背負子があり、小学3年生の「昔の道具、昔くらし」の説明では、実際に背負えることができ、人気の昔の道具の一つです。

洗濯板

 今月から、古民家の内蔵や長屋門に保管されている生活道具や労働道具をご紹介します。
 今回は洗濯板。これは今内蔵に展示されています(写真)。縦56センチ×横24センチ×原さ2センチの立派なものです。洗濯機のない時代にはどこの家庭でも普通に使っていましたね。何人かの奥さんから「子供の頃、洗濯板と金盟で、力を込めて洗っていたのを思い出す。」「私は経験がないが母親が使っていたのを見た。」とか「私も使っていたわ」などとお話を伺うことができました。記者の私も子供の頃は自分のものくらいは母親がやるのを見よう見まねでごしごしやりました。
 今この洗濯板が、見直されているらしいのです。洗面所でやるちょこっとした洗濯に便利とか部屋の飾りに良いということです。それならばもしかしたらネットで売られているかと見ると、有りました。ぐっと小型な1,000円から少し大きめの2,000円までですが、宣伝文句に『オシャレな小物としてもいい感じ』とあるのは時代ですね。
 ついでに街の風呂用品のお店をのぞくとやはり2,000円でありましたが、古民家のものよりひとまわり小さいものでした。

長持

Q:古民家にある長持の利用法は?
A:長持は衣類・夜具・調度品を入れるための、蓋付きで長方形をした木製の収納具の一種です。
 蓋・箱の四隅に保護用の金具が、両端に棹で担ぐための角材を通す金具が付いています。一般的な大きさは、幅5尺5寸前後(約170 cm)、奥行きと高さは2尺5寸(約75 cm)です。蓋には錠を備え、上等の品は漆塗り、家紋入りのものもあります。室町時代以前には収納具として櫃(ひつ)が用いられていたが、時代が進むにつれて調度品や衣類が増え、さらに江戸時代には木綿が普及し布団など寝具が大型化し、より大型の収納具が必要とされました。長持は武家に使用され、やがて庶民の間にも普及するようになりました。長持は結婚が長く持ちますようにと、代表的な嫁入り道具の一つでしたが、大正時代以降、長持の役割は箪笥に代わりました。
 古民家にある長持は外形寸法、幅169cm、奥行き69cm、高さ74.5cm、収納部寸法、幅161cm、奥行き61cm、高さ 58cmの大きさで漆塗りです。只今座布団30枚収納しています。

千歯扱き

Q:納屋にある歯のようなものが沢山ある器具は何ですか?
A:千歯扱き(センバコキ)です。稲や麦を脱穀する農具です。
 竹や金属の歯(穂または刃とも云う)を櫛の歯のように並べ木台に固定し,それに稲穂をかけて穀粒を扱き落とします。歯は1挺あたり17から27本ほど使われ、台木に櫛状に留めてあります。歯の断面は当初は長方形の平打でしたが、面取打や槍打に改良されました。歯と歯の間隔(隙間)は目といい、稲用と麦用とで異なります。稲用は約1.5mm程度です。千歯扱きは江戸中期に発明され、全国的に広がりました。大正時代になり回転式脱穀機が考案され、千歯扱きは終わりを迎えました。ただし回転式は穀粒を痛めるため、種籾を得るために千歯扱きが昭和時代半ばまで使用されました。
 古民家納屋にある千歯扱きは歯の数が21本、幅は15mm、目は1.5mm、長さは25cm、断面は槍打です。小学校の「昔の暮らし」の学習で人気者です。

そろばん

Q:古民家の帳場にそろばんがありますが、五つ玉そろばんと四つ玉そろばんの違いは?
A:そろばんは加減乗除を珠算によって行う計算器具として中国から室町後期に伝わり、江戸時代に進展する商業に計算用具として大発展をみました。貨幣制度が金銀銭という複雑な制度や割算の九九の普及も関係しました。庶民教育においても「読み書きそろばん」として一般的になりましたが明治の学制改革によって小学校教育ではずされました。しかし国民の要望によってただちに復活し広く学習されました。そして簡単・便利・廉価な計算器として産業の発展に大きな役割を果たしました。昭和初期まで天珠(五珠)一つと地珠(一珠)五つで構成されていました。昭和10年(1935年)になって、小学校の教科書の改訂で、一珠の五番目は不要ということで4つにし、四けた区切りの定位点がついたそろばんがよいと指示され、四つ玉そろばんが普及しだしました。
 古民家の広間に置かれている五つ玉そろばんは、四つ玉そろばんの教育が普及する前の時代の人々に慣れ親しみ使い込まれたものと思われます。

煙草盆

 内蔵の宝 煙草盆
 最近は煙草を吸う人は随分と減っているようですが、現在のような紙巻き煙草やライターのない時代、喫煙は大変面倒なものでした。寛永年間(1624~44)に茶道具として南蛮から持ち込まれたといわれる煙草盆は、喫煙の便を図るため、炭火を入れた火入れ(写真の右部分)、吸いがらを捨てる灰吹き(灰落とし=写真の左部分)そしてキセルなど喫煙諸道具一式がコンパクトにまとめられた画期的なものでした。初めは大名茶人を中心とした人びとで使用されていました。大名好みには飾り立てた細工物が多いのに対して茶人好みは桐や桑等の木地で形も簡素なものが多かったといいます。次第に庶民の間にまで普及していきました。古民家の煙草盆は箱形、大きさ17cm×30cm、高さ15cmで日常生活でかなり愛用されたもの思われます。
 煙草盆は今でもお茶の席で茶室を飾り、くつろいだ雰囲気をだすための道具として出されたり、古道具としても人気があるそうです。

たらい

むかしの道具 盥(たらい)
 たらいは桶の一種で水または湯を入れ、洗面、洗濯などに用いた扁平な容器です。たらいの語源は「手洗い」のなまったものといわれます。平安時代は手洗い、洗面に用いられ陶製、曲げ物であったと思われます。

 中世になって桶締めの技術の発達により大型化し、種々の用途が広がりました。材料は耐水性の高いヒノキ、スギ、サワラなどが用いられました。江戸時代になり、もみ洗いの洗濯用具として普及しました。明治以降、洗濯板との組合せたたらいは洗濯機が普及するまでどこにも見られた生活用具でした。大正時代になりトタン、ほうろう引きなどの金だらいが用いられるようになりましたが、木製のたらいは洗濯用あるいは乳幼児の沐浴用として用いられています。
 古民家にあるたらいは直径56cm、深さ21cmで典型的な洗濯用のたらいです。

昔の道具 俵
 俵は、藁(わら)の小束を細縄で編んで作った収納、保存、運搬用の包み運ぶ道具です。円筒形で両端を塞ぐことによって密閉しますが、編みが粗く通気がよいのが特徴です。用途は広く米・穀類や芋などの農産物の他に水産物、塩、木炭などにも用いられました。
代表的用途は米俵で米の貯蔵・運搬に江戸時代は年貢米を納めるために用いられました。その大きさは時代・地域によって一様でありませんでした。収納量が3斗5升、4斗、4斗5升などがありました。明治の地租改正により、全国的に統一され4斗入り(60 kg)となりました。その大きさは直径約45cm、長さ約75cm、内容積約72リットルです。

 昭和30年代から麻袋や紙袋が用いられるようになり、今では実用の米俵は見られなくなりました。1袋は30kg 入りです。古民家納屋にある米俵はボランティアが作ったもので大きさは通常ものより一回り小さくなっています。なお、俵の両端に蓋として取付ける藁で編んだ円盤状の付属品は桟俵と云います。単独でクッション風の座具や、民間信仰の祭祀具としての用途もありました。

帳場

Q:古民家主屋の広間北東部にある机のようなものは何ですか?
A:帳場です。帳場は純日本的な店舗や旅館の勘定場です。
 通常の店舗は土間、上り框、畳敷きの商品売場、帳場などから構成されていました。帳場には二つ折り又は三つ折りになる木製格子の帳場格子、帳場机、てんびん秤、そろばん、硯箱、銭箱、帳面箱、銭桝、銭皿、帳場箪笥、大福帳その他の帳面、そのほか勘定に必要なすべての道具が置かれていました。帳場は帳付けや勘定などをする場所で、売場との境は帳場格子で仕切られていました。
 古民家主屋にあるものは二つ折りの帳場格子で囲まれ、いくつかの棚がある机が置かれ、硯と五珠そろばんのほかに、小岩井家の資料や来園者の感想を書込むノート「いろり辺雑記」が置かれています。イベント時には受付になることもあります。だいぶ古くなっているので優しく扱ってください。

附木

マッチ以前の着火法 附木(ツケギ)
 火の使用は調理、暖房、照明と人間生活に欠くことが出来ないものです。昔の人は火を作り、保持することに苦労してきました。古い時代は火打石や木片をこすりあわせて着火する方法が用いられましたが、実際は簡単ではありませんでした。マッチは19世紀中頃発明され、明治時代に日本に伝わり、大正年間には有力な輸出品になりました。マッチ以前は一般民家では火種を絶やさぬようすることが大切でした。例えば就寝時、囲炉裏の灰に熾火を埋めておき朝に掘出して附木(ツケギ)など燃えやすいものに着火して、薪などに移しました。

 附木とはマツ、ヒノキ、スギの柾目の薄片(巾1~3cm、長さ10~15cm、厚さ0.5mm以下)の一方の端に硫黄を塗ったものです。江戸時代の書籍にも附木売りが江戸や大阪で繁盛していたことが紹介されています。附木は高度成長前までは地方によっては普通に利用されました。更には引越しの挨拶に持参するものの一つであり、近所から貰いものへの簡単な御返しでもありました。
 ふじやま公園の古民家には、参考資料として収集した市販の火打石セットの中に小型の附木(写真参照)があります。附木売りの画像は岩波文庫版「近世風俗史(守貞漫稿)」より。

壺と甕

壺(ツボ)と甕(カメ)はともに古くからある器の形として馴染みのものです。これまで水や飲食物の保存用具や煮炊き用の調理具としても用いられています。壺(写真左下)は胴の中央がふくらんで上下がすぼまっているもので、上部の直径が狭くなり口頸部があります。甕(写真右上)は口が大きく、胴が丸く深い形で壺の大型のものとも言えます。頸の直径が腹部の直径の2/3以上のものを甕、2/3以下のものを壺とする定義もあります。

 日本の壺の始まりは縄文土器ですが、時代が下がるにつれ土製から陶磁器、金属製、更にはガラス製と、材料や種類も多岐にわたりました。壺は古今東西を問わずどこにお
いても発達した器で、一般的な形です。甕も縄文土器にあり一例として深鉢形甕が煮炊き用いられました。甕は飲料類の貯蔵・製造用具、漬物などの保存・加工用具や油・藍汁などの容器に用いられました。
 今では両者ともガラス製・ほうろう製・金属製・プラスチック製が用いられ、従来の材料や形が少なくなっています。旧小岩井家主屋板の間や内蔵に昔懐かい陶器製のものがあります。壺と甕を比較してみてください。

手鏡

内蔵の宝(化粧道具 手鏡)
 鏡に映像が「映る」という現象は、昔はとても神秘的なものとして感じられたために、もともとは祭祀の道具でした。鏡の面が単に光線を反射する平面ではなく、世界の「こちら側」と「あちら側」を分ける仕切りのようなものとして捉えられ、鏡の向こうにもう一つの世界があると考えられていました。今でも、鏡をご神体として祭っている神社があるようです。
 鏡が化粧道具になって手鏡が誕生したのは、日本では室町時代以降と言われています。江戸時代には化粧の発展とともに庶民に広く普及していきました。この頃の手鏡は水銀を多用した金属製の銅鏡でした。ふじやま公園の手鏡も磨けば顔が映るかもしれません。

鉄瓶

 鉄瓶は鋳鉄でつくられ、直接火にかけて湯茶を沸かす用具です。土瓶と同じような形状の胴に、注口(つぎぐち)と鉉(つる)が付属しています。蓋(ふた)は胴と同じく鋳鉄製か、銅製です。胴には霰などの地文を鋳出しています。
 鉄瓶の元祖は、茶の湯に用いる釜の一種の手取(てどり)釜であるとか、江戸時代中期に、南部藩の釜師が初めて製造した土瓶形の茶の湯釜であるとか、京都で薬湯用の陶製の土瓶からヒントを得て製作されたとか諸説あります。いずれにせよ、鉄瓶自体が完成し普及したのは江戸時代に入ってからのことであり、その名称は、江戸中期以降に一般的になったといわれています。主産地としては、京都・大阪のほかに、岩手県の盛岡が著名であり、「南部鉄瓶」とよばれています。
 現在の一般家庭では湯沸かしはアルミ製かステンレス製のヤカンか、電動ポットになり、鉄瓶は姿を消しました。古民家主屋の囲炉裏の自在鉤にかかっています、確かめてください。

手回し扇風機

 農業用手回し扇風機
 脱穀した籾には、稲の葉や藁(わら)くずが混ざっているため、これをさまざまな方法で取り除く必要があります。風が吹くときに、籾と藁くずが混ざったものを高いところからすこしづつ落とし、重い籾は下に落とし、軽い藁くずやゴミは遠くに飛ばす方法です。これを風選と云います。風が無い時は、団扇(うちわ)、農業用手回し扇風機などで風を起こしました。

天秤棒

 物を担いで運搬する道具の一つとして天秤棒があります。秤(ハカリ)の天秤の竿と同じように、両端に荷を下げ、その支点を担いで運びます。多くの場合、桶や籠などの容器類と併用することにより運搬具として働きます。
 天秤棒は古代から、また現代でも世界各地で用いられています。棒の先の紐をかけるツメ(突起)があるもの、つり手の太紐が結びつけてあるもの、断片が扁平なもの、丸いものな断いくつもの形があります。
 天秤棒の典型的な使用は水運びと下肥運びでした。農村だけでなく港ではパイスケによる石炭運びに、町中でも行商人や金魚売りに使われました。同じ運搬具である背負子は山間部で多用され、天秤棒は平野部で多用されました。現在ではリヤカーや車の普及で天秤棒はほとんど姿を消しました。

 古民家物置には使込んだ天秤棒があります。長さ141cm,中央部は6cm厚さ4cmの扁平で、重さ1.2kg です。両端に鉄製のツメがあり、今でも使用可能です。小学3年生の昔の道具の学習では実際に担ぐことができるので人気の道具の一つです。

灯明台

 台の上の皿に油を入れて藺草(いぐさ)の灯芯に火をつけて明かりを得ました。写真では皿の左側に紙で作ったこよりをおいて灯芯にしています。これひとつではとても暗くて、昔の人はこれでほんとうに生活できたのだろうかとさえ思われます。読書や縫い物などは灯によほど近づかないとよく見えなかったのではないでしょうか。
 火をつけてしばらくして芯が短くなったら、芯を少し押し出せばまた明るくなります。この操作を「芯を掻き立てる」といいます。芯を皿の中で抑える陶器の「掻き立て」もありました。またかなりすすが出るので、しばらく使っていると家の中がすすけてきます。昔は年末の大掃除のことを「すすはらい」と呼んだのはこのためです。箱の前面は倹飩(けんどん=慳貪とも)と呼ばれる
構造で、蓋を上からはめ込むようになっています。出前の岡持ちと同じ構造です。
 内蔵にある灯明台にはこの蓋はなくなっています。なお裸火では風で消えてしまうし、全体を照らすために周りを紙で覆ったのが行灯ですが、紙に光を吸収されてさらに暗くなったことでしょう。

唐箕

Q:長屋門納屋の前にある大型の農機具は?
A:唐箕(とうみ)です。稲、麦等の穀物や豆類、菜種などの種子の選別用農機具です。
 中央部にある太鼓型の起風胴という箱の中にある羽根車をハンドルで回転させて風を起こし、穀物などを比重選別します。唐箕は元禄時代になって登場し以後一般的に使われるようになりました。それ以前は箕に穀物を入れ、両腕で煽って選別を行っていました。風力を用いる方法として手回しの扇風機を用いることもありました。
 古民家納屋に唐箕が3台,箕が5個,扇風機が2基あります。4年前公園の畑で栽培した麦の脱穀したものを唐箕で麦粒と麦わらに見事分離しました。その状況の写真を紹介します。

徳利

Q:内蔵にある徳利に酒屋名や屋号がありますが何故ですか?
A:徳利は酒器の一種で、おもに陶磁器でつくられおり、形は入口径が狭く、胴の膨らんだ背の高い形のものが多く、室町時代中期からこの名がみられます。徳利は、初めは酒のほか、醤油や酢などを入れる容器にも用いられましたが、後に酒専用の容器とされました。徳利の語源の一つに、備前焼でつくられたものが多く、安価で堅固であるところから徳利であるという説があります。
 江戸時代中期まで、酒は酒屋で飲むものでしたが、後期になって、家でも酒を日常的に飲むようになり、酒屋の貸出し容器として「通い徳利」が普及しました。これには酒屋の屋号や地名などが表面に書かれるようになりました。容量は5合から3升までありますが、最も多いのは1升前後でした。当時のアルコール濃度は15~18%と云われていますが、消費者の手元に届く頃、水で薄められアルコール濃度は1/4まで落ち、4~5%ほどだったようです。従って大量に飲まれたようです。
 旧小岩井家住宅の内蔵に展示されている徳利は、容量が1~2升であり村名、酒屋名や屋号が記されており典型的な通い徳利です。

長持

Q:古民家にある長持の利用法は?
A:長持は衣類・夜具・調度品を入れるための、蓋付きで長方形をした木製の収納具の一種です。蓋・箱の四隅に保護用の金具が、両端に棹で担ぐための角材を通す金具が付いています。一般的な大きさは、幅5尺5寸前後(約170cm)、奥行きと高さは2尺5寸(約75cm)です。蓋には錠を備え、上等の品は漆塗り、家紋入りのものもあります。室町時代以前には収納具として櫃(ひつ)が用いられていたが、時代が進むにつれて調度品や衣類が増え、さらに江戸時代には木綿が普及し布団など寝具が大型化し、より大型の収納具が必要とされました。長持は武家に使用され、やがて庶民の間にも普及するようになりました。長持は結婚が長く持ちますようにと、代表的な嫁入り道具の一つでしたが、大正時代以降、長持の役割は箪笥に代わりました。
 古民家にある長持は外形寸法、幅169cm、奥行き69cm、高さ74.5cm、収納部寸法、幅161cm、奥行き61cm、高さ58cmの大きさで漆塗りです。只今座布団30枚収納しています。

縄ない機

Q:縄ない機はどんな構造になっていますか?
A:縄ない機は藁を数本嵯りあわせて素線を作る下撚り装置、二本の素線を縄に嵯りあわせる上撚り装置、出来た縄を巻取る装置の三部分から構成されています。機種は動力、縄の太さ、藁の供給方式などにより多数ありました。
 縄は植物の茎や繊維をより合せて細長く延ばしたもので、縛る・繋ぐ・吊す・運ぶなどの生活場面では縄が主役でした。素材は普通稲藁です。縄を作る作業を「なう」と云います。縄ない機以前は手でなっていました。縄ない機は明治38年に特許が出願され、以後改良され全国各地にメーカーが生まれました。昭和40年代まで広く使用されました。
 古民家にある縄ない機は足踏み式で、銘板に特製ミノル式とあります。製造元は川崎発祥の細王舎の東京工場、発売元は戸塚の柳田商会とあります。

パイスケ

Q:長屋門納屋にパイスケがありますが名前の由来は?
A:パイスケは港における石炭の荷役や機械部品などの運搬などに使用された竹製のザルです。広辞苑に「バスケットの訛、石炭・土砂などを運ぶ籠、バイスケ」とあります。
 縁の4箇所に吊り縄をつけ天秤棒で運びました。篠竹(女竹、川竹とも)を割って編んだ円形の大きなザルで、大きさと形は用途に合せて何種類かありました。当地域の特産と云われていますが、栃木、埼玉、静岡、鹿児島等にも同様なものがつくられ、全国的なものと考えられます。慣れた人で1日に10個ほど製造できたとのこと。
 古民家長屋門納屋にパイスケが3個あります。ご覧ください。

箱膳

Q:内蔵に箱膳が展示されていますが使用法は?
A:箱膳とは一人分の食器収納と同時に膳の役目を果たす箱形のお膳のことで、食器の一種であり調度品でもあります。木製で24~30cm四方、高さ 12cm前後、板の表面は柿渋や漆などで仕上げられています。中には、飯椀.汁椀・小皿・箸・湯呑み茶碗・布巾などの個々の食器ー式が収納されていて、共用することはありません。使う時は上蓋を裏返して、中から取り出した碗や皿を並べました。
 箱膳のもう一つの特徴は食後、香の物(漬け物)で碗をきれいにしてそれも食べ、白湯ですすいで呑みほします。それから布巾で拭いて箱の中へしまい、蓋をかぶせて台所の棚に積上げました。食器を洗うのは月に2~3回程度でした。家事の手間が省け、水が節約でき、収納場所もわずかでした。もう一つの特徴は日本人の生活内に少ない個人主義的なもの一つです。(西洋では皿、スプーンなどは共用です)
 旧小岩井家内蔵にある箱膳は収集品ですが、昔の生活を想像しては如何でしょうか。

はたき

 掃除方法を大きく分けると、はたき掃除。掃き掃除、ふき掃除、みがき掃除などに分けられます。はたきは建具・家具・道具類の塵をはたき払う掃除道具です。布片や羽毛を束ねて柄に付けたもので、つい最近まで一般家庭にかならずあった掃除道具でした。はたき掃除はほこりをまき上げるのであまりよい掃除でありませんが、日本家屋でははたきをかけなければならない部分(障子の桟やなげし)が多くこの掃除は必要でした。はたきで舞上がった塵・ごみが落ちるのを待って、掃き掃除やふき掃除を行いました。
 古民家では障子が30張ほどあり朝の掃除ではたきが活躍しています。はたき掃除の前に、風通しよくして、障子の上から下へ桟の上を払うようかけるのがはたき掃除のコツです。

法被と半纏

Q:パッピ(法被)とハンテン(半纏・半天)との違いは?
A:法被は能の男装束、武家の装束を源流にし、江戸初期には武士、僧侶、お金持ちに限定されていました。江戸後期、庶民は半纏が広まりました。現在では法被も半纏も区別なく、衣類の名称として使われています。しかも通常目にしたり、着用されているのは半纏です。法被は丈が長く(尻まで)、脇が空いて襠(マチ)があり、広い裾、袖が長く、胸紐が有り、襟を反してして着ます。半纏は丈が短く(尻の上)、脇に襠がなく、袖が短く、袖口が小さく、胸紐が無く、襟を反しません。

 法被は礼服・モーニングに相当し、半纏は仕事着・実用着に相当します。半纏の一つである印半纏は木綿製、江戸後期から職人の間で用いられ、雇主が使用人や出入りの者に支給して着用させました。
 旧小岩井家の主屋と内蔵とつなぐ廊下に飾っているのは小岩井家の名が入った印半纏です。(右上画像は「守貞漫稿」より引用)

羽根突き

Q:羽根突きの羽根の黒い錘は何ですか?
A:正月遊びの一つである羽根突きの羽根(羽子〔ハゴ〕)の錘は無患子(ムクロジ)という植物の種です。この種は硬く弾力があり、羽子板でつくとよく弾んで気持ちよい音を出します。羽根には2種類あり、「矢羽根」は落ちてくるスピードが速く、「丸羽根」はくるくる回りながらゆっくり落ちてきます。羽根突きの羽根の飛ぶ様子が子ども病気の原因となる蚊の天敵であるトンボに似ているので、かつては夏から秋に行われとのことです。無患子は患う子どもが無いと言うことから縁起がよいので江戸時代には女の子の正月の遊びとなりました。以来、羽根突きは1年の厄をはね、子ども達の健やかな成長を願うものとして、親しまれてきました。無患子の実の皮は水中で揉むと泡を生じ、百年前までは洗剤として使われていたところもありました。
 古民家では正月中、羽子板と羽根を用意しています。皆さんでお楽しみ下さい。

張り板

Q:主屋土間の二階への階段に立掛けてある板は何ですか?
A:「張り板」です。布を洗って糊づけし、張ってかわかすための板です。かつては和服を洗濯する際には、縫い目をほどき、反物に戻してから洗濯し、糊付けし、張り板や伸子針などを使ってしわを伸ばして自然乾燥し、再び着物に仕立てました。このようなことは昭和30年ころまでは家庭でも行われていました。
 張り板は、明治以前は戸袋、雨戸などを利用しましたが、その後改良されトチやホオの木が使われるようになりました。
 古民家には張り板が階段に立掛けてあるものを含め3枚あります。張り板3枚で一反分を同時に仕上げることが出来ます。高さは約2m、巾は約40cm、 厚さ約2cmです。板の縁や土台の摩耗した様子から以前は重宝されていたことが偲ばれます。来園時に確かめてください。

半纏

 半纏(はんてん)は、江戸時代の18世紀頃から庶民ことに職人の間で労働着として着用されるようになりました。紺木綿地に屋号などの印を白く染め抜いた印半纏(写真左)は、おもに鳶職や大工、左官などが日常に着用するもので、出入りする得意先の家から盆暮れに仕着せとして与えられる習慣がありました。

『なまづおなんぎ大家場焼』部分「江戸のきものと衣生活」丸山信彦

 右の図は、うなぎ屋の店先を描いたものです。画面の左手前には、腹掛に股引をつけ、紺色の印半纏をはおった職人の姿が見えます。
 今では、男性・女性に限らず着用されていて、袖の形などでいろいろなものがありますね。よく知られている綿入半纏は、袷にしてその間に綿を入れて防寒着として用いられています。

火消壺

Q:主屋土間かまどの脇にある壺は何ですか?
A:火消壺(または消壺)です。熾火(オキビ)や使用済みの木炭を入れ、蓋で密閉して火を消すための容器です。ふつう瓦製・鉄製の丸形の蓋付き容器で、台所のかまどの近くに置かれました。関西では熾きを消すために、「水消し」と「から消し」の二通りの方法がありましたが、関東では水消しをしないので、火消壺の呼び名が生まれました。壺に残った消炭は次に使用するときは着火しやすく便利かつ経済的でした。

 火気の使用がガスや電気になった現在の都会生活では存在の理由がなくなりました。一方、今ではアウトドアでのバーベキューの後始末用に金属製円筒状のものが用いられるようになりました。

肥後守

 かつては子どもたちの宝物
 肥後守(ひごのかみ)は、刃が折りたためる安全で機能性にすぐれた刃物です。日本特有のもので世代を超えて愛用され、特に子ども達にも人気を博しました。産地は肥後(熊本)ではなく一貫して兵庫県三木市です。発祥については明治初期、三木市の金物商が鹿児島・熊本で入手した刃物(刀子・小柄)を工夫・改良した結果、画期的な刃物が生まれました。元になったものに基づいて肥後守と名付けました。
 肥後守の実用性を決定づけた最大の工夫は刃体の元に「尾」を付けたことです。この尾によって折りたたみ式の刃の出し入れが簡単になり、使用時には尾を親指で押さえ安定するようになりました。刃には伝統的な割り込み鋼を用い、切れ味が鋭く、大量生産により安価になり、鉛筆削りや竹細工に活躍しました。
 少年に刃物を持たせない運動によって、子どもたちの手から肥後守は姿を消しました。皆さんの引き出しの片隅にあるかもしれません。

柄杓

「柄杓(ひしゃく)」
 柄杓は水などをくむ用具です。木・竹・金属で作った筒または腕状の容器に柄をつけたものです。ひしゃくの語源は古くは瓢(ひさご)を二つに割って使ったことから、ひさごが転訛したといわれています。
 柄杓は一昔前まではどこの家庭にもあり、日常生活に必要な水を移し替えたり分配するための大切な道具でした。水道の蛇口から容器に直接入れるのが普通になり柄杓はほとんど見られなくなりました。
 今では神社の手水舎(チョウズヤ)、茶道の茶杓、大相撲で力士が取組前に力水をつける、涼をとる散水などに用いられています。古民家では水琴窟の蹲踞(ツクバイ)で見ることができます。

火熨斗

 火熨斗は今でいうアイロンのことで、丸い器の中に炭を入れて使います。昔私たちは日常的に裁縫をしていました。繕いものはもちろんのこと、大人の着物を子ども用に手直ししたり、古くなった着物を雑巾にしたりしました。また、一着の着物を冬には綿を入れたり、夏には袷(あわせ)の裏地を外して単(ひとえ)にしたりと一年中着まわしていました。このため衣類の縫い目を全部解いて洗い張りをしました。

 洗濯した布は再び着物の形に縫い直されて、写真のように炭を使う火熨斗を使用して仕上げました。
 一般庶民が着物を買うというと古着屋からが多く、布がとても大事にされた壮大なリユースです。

ひばち

昔の暮らし(民具と農具) 火鉢
 火鉢は、昔は必需品でしたが現在ではほとんど実用されていない民具の例の一つでしょう。灰を入れ、中に燠(おき)、炭火をついで手足をあぶり、室内を暖め、湯茶などを沸かすのに用いました。平安の昔は火桶(ひおけ)、火櫃(ひびつ)といい、後世はもっぱら火鉢とよんでいました。
 室内の暖房のために「いろり」が広く用いられましたが、煙と煤(すす)を避けるため座敷では火鉢が用いられました。火桶はヒノキなどの曲物(まげもの)に土製の容器を置いたものでした。

 やがて陶器製や金属製ができ、形も丸火鉢、長火鉢などと多様化しました。火桶の使用期間は旧暦10月から3月までと云われていました。火鉢は蚕の飼育室内を発育に適する温度(23~27℃)に保つためや、お茶の焙煎に用いられ、農具でもありました。
 古民家の土間には大火鉢、内蔵には色々な形、大きさ、材質の火鉢があります。見比べ、昔の人たちが暖をとっている姿を想像してください。

火吹竹

Q:七草粥の日、囲炉裏端で幼児が火吹竹を指して「これなぁに」、若いお母さんも「何でしょう?」、そこでボランティアのおじさんがひとくさり。
A:これは火吹竹といい、火を吹きおこす道具です。吹筒、竹火筒のどとも書きヒフキダケ、ヒフキヅツのどと呼んでいました。直径約3~5cm、長さ約50cmの竹で,先端を節としその真中に小穴をあけます。反対側に口を附け呼気を小穴から空気を吹き出します。電気・ガスが普及する以前は、各家の炊事はカマドを作り、その内に薪を入れその下に、焚き付けを置き点火しました。そのままでは、空気の供給が少なく燃えにくいので、口先をとがらして呼気を直接吹付け燃えるのを盛んにしました。この場合灰を吹きあげたり、燃上った炎で暑くなったりします。

 そこで火吹竹を用いると、火から離れて安全かつ適量の空気を集中して、合理的に送り込むことが出来ます。従って火吹竹は各家庭では、なくてはならない道具でした。古民家にある火吹竹は古民家移築後に作った新しいものです。幼児はすぐに火吹竹を上手に使うことが出来ました。

瓢箪

内蔵の宝 瓢箪(ひょうたん)
 原産地のアフリカから食用や加工材料として全世界に広まったと考えられていて、上下が丸く真ん中がくびれた形のほか大小さまざまな品種があります。
 瓢箪はかつて、水筒、酒器、調味料入れなどの容器に加工されていました。微細な穴があるために水が漏れ出し、気化熱が奪われるため中身が気温より低く保たれます。
 内蔵には変わった形の二つの瓢箪があります。これらは何に使われたか定かではありませんが想像が膨らみます。
 利便性の高さからか、縁起物とされ羽柴秀吉など多くの武将の旗印や馬印などの意匠として用いられました。志賀直哉の小説「清兵衛と瓢箪」でもおなじみですね。また大井町では毎年8月第一土、日曜日に「大井町よさこいひょうたん祭」が開かれて賑わいます。

ホイロ

Q:主屋の大戸を入って右側にある箱状のものは何ですか?
A:製茶用の焙炉(ホイロ)です。茶葉を下から弱く加熱して乾燥しつつ、茶葉に手作業を加えるように工夫された道具です。構造は火を保つ炉の部分と茶葉を入れる助炭(ジョタン)の部分から成ります。製茶作業は蒸し、揉み、乾燥の順に行われます。ホイロでは揉みと乾燥が行われます。下部の炉に炭火を入れその上に助炭をかぶせます。助炭は木枠に鉄板を取付けその上に和紙を何枚も張っています。熱せられた助炭で蒸した茶葉を手で揉みながら乾燥します。揉んだ茶は障子に刺さるほどピンと伸びるようにとも云われました。
 当地域でもかつては自宅の周りに茶を植え、自家で製茶し販売もしていました。昭和初期の上之地区の茶の生産量が120貫というデータがあります。公園にあるホイロはその名残と考えられます。助炭の面積は約0.7㎡、深さ12cm、炉部分の高さは約90cmです。

昔の道具 箒(ホウキ)
 箒は家什具・用具の一つで掃き集めたり掃き出したりする掃除道具です。用途によって外の庭などを掃く庭帚、室内用の座敷帚、、作業用の手帚などの種類が羽などで作られます。形状は枝を付けたものが一般的です。柄の長いものは長箒と云い、立ったまま床などを掃けるようになっています。長柄と短柄と区別され、長柄は平筆状、短柄は扇形になっています。箒は古くはハハキと読み、古事記に記載されており、正倉院には皇室に献上された遺品が残っており、かなり昔から使われていたことがわかります。
 箒には種々のまじない習俗があります。一例として箒を逆さに立てて居座っている客を早く帰らせるまじないは、箒がものを掃き集めたり、掃き出す機能に由来します。
 一般家庭でかつては普通であった箒による掃き掃除は真空掃除機に取って代わられました。古民家では毎朝や月二回のクリーンアップで座敷や板の間の掃き掃除に長柄の箒が活躍しています。クリーンアップの作業で長柄の箒で掃き出すの感覚を思出してください。皆さんの参加を歓迎しています。

昔の暮らし 民具と農具 蓑(みの)
 蓑は、藁(わら)やシュロなどの茎、皮、葉で作られる外套・雨具の一種です。防雪、防寒、日除けのための作業着として農業、漁業、山仕事や狩猟のほか旅の道具としても、長い間、広く用いられました。地方によっては、婚礼の行列で祝樽を担ぐときに着用する例もありました。
 蓑の形は、用途によって肩蓑、胴蓑、背蓑、腰蓑、丸蓑などがあります。雨に当たる表側は材料を重ね合わせてあり、鳥の羽に似ています。裏側は網目のように編んであります。一般的に用いられているものが肩蓑で、肩から背中全体を腰部までを覆います。腰蓑は腰部をすっぽり覆うもので、農作業のときには前掛けの機能を果たす便利なものです。

 蓑は、神の旅装束となり、民俗儀礼などで仮装の道具として用いられます。時には、人を神や異界のものに変身させる呪力を発揮する変身具でもあります。正月、小正月、婚礼や葬礼、雨乞い、虫送りなどに用いました。

ムシロとコモ

Q:むしろ(筵)とこも(薦)の違いは?
A:両方とも藁、藺(イ)草や竹などを編んだものです。むしろには縁がありこもにはありません。むしろは敷きものでこもはかぶせるものと言えます。むしろは材料や形状により稲むしろとか花むしろなどいくつかの名称があります。現在では一般に「わらむしろ」を指し、農家の板の間や土間の敷きつめたり、前庭に敷いて稲籾や麦の乾燥のための「干し場」にしたり、脱穀など農作業の場として用いました。農家にとっての必需品の一つでした。またむしろ編みは農家の冬の副業の重要なものの一つでした。こもは元々マコモを粗く編んだものでしたが、現在ではわらを用いています。また荷車にかぶせるなど他のものを覆うために用いられます。例えば「こもかぶり」はこもで包んだ酒樽を言います。門松の土台もこもで覆っています。

龍吐水

火災対策と龍吐水(りゅうどすい)
昔は冬場に火事が多かったようです。江戸時代、八代将軍吉宗は江戸府内の火災対策について荻生祖彼に諮問し、各町名主から町奉行大岡忠相に上申されていた〈町火消〉創設の答申案を採用しました。時代劇によく出てくる「いろは組」は享保四年(1 7 1 9) に始まったものです。
 各町の自身番屋には物見台と火の見梯子があって、出火の際は半鐘を叩いて知らせました。町火消は水に浸した刺子頭巾、刺子半纏姿で、龍吐水、纏、梯子や鳶口(破壊消防用の鉤をつけた棒)などを持って出動しました。
 龍吐水とは大きな箱の中にポンプの装置を作り、横木を上下させることで箱の中の水を引き出してポンプから水をかける仕掛けになっていました。しかし当時の消火方法は鳶口などによって延焼を防ぐ破壊消防が中心でしたから、龍吐水も屋根にいる纏持ちと纏に水をかける程度の能力しかありませんでした。
 古民家には龍吐水の小型版で水鉄砲とも呼ばれるポンプと水を入れた箱が入り口に置かれています。たくさんある水鉄砲には文久三年(1 8 4 6)相州宮澤村(現瀬谷区宮沢町)の岩崎伊兵衛という人の名前が見えます。また焼印がされていて、御免とあるのは江戸末期、官許とあるのは明治初期のものです。水を入れて運んだ箱には「な組」の文字があります。
[参考:「古民家にある案内表示」古民家歴史部会)、「江戸東京職業図典」槌田満文/東京堂出版]

龍吐水

Q:長屋門穀蔵の前にある「な組」の彫がある木製の箱は何ですか?
A:龍吐水の水槽部分(容積約125リットル)です。ポンプ部分がありませんが、別に水鉄砲式のポンプが穀倉に4基あります。龍吐水とは木製の手押しポンプで主に消火用具として使われました。大きな水槽に手押ポンプを取付け、木製の筒先から水を噴出させます。宝暦4年(1754年)長崎で発明されたと云われています。放水能力は14~15mといった程度でしたが当時としては画期的でした。明和年間(1764~)江戸町火消し全 64組に各1台ずつ官給整備されました。水鉄砲式のポンプは外寸法11cm×7~9cm、高さ75~80cmの四角の筒に手押しピストン底部に吸入口、高さの中央部に噴出筒があります。噴出筒は角度を変えることが出来、噴出口は直径5mmです。防火訓練の際、試したいものです。

ロケット戦闘機燃料用瓶

Q:古民家長屋門穀倉にある水色の瓶はなんですか?
A:第二次大戦末期に開発されたロケット戦闘機「秋水」の燃料の一つ「甲液」の貯蔵・運搬用の瓶です。秋水は高度1万メートル以上で飛来するB-29を迎撃するために開発されました。ゼロ戦など従来のレシプロエンジンでは上昇や戦闘が不可能に近く、酸素を自ら持つロッケトエンジンが望まれ開発が行われました。秋水は酸素源として過酸化水素(甲液)と燃料としてヒドラジンとアルコール(乙液)が用いられました。甲液は腐食性が強く金属容器は使用できず、ガラスなどの無機材料が利用されました。当時小菅ヶ谷にあった第1海軍燃料敞で研究が行われ、終戦後この瓶が持出されたものと思われ、当公園に持込まれた経緯ははっきりしません。直径約30cm、液収容部の高さ約25cm、内容積約20リットルです。珍しい戦争遺物の一つです。

和傘

昔の道具 和傘
 傘は笠に長い柄をつけて用いることから始まりました。これを笠と区別して「サシガサ」とよびました。長柄傘は絹や木綿を張ったもので「キヌガザ」とよばれ、公家や僧侶など特別の身分のものしか使えませんでした。封建時代の象徴でしたが、やがて雨除け、日除けとして手軽な道具として一般に普及しました。
 元禄年間になって、竹製の骨に紙を張り、桐油や柿渋を塗り、柄を短く持ちやすくし日常用として番傘が出来、庶民が用いるようになりまた。日除けのための日傘は宝暦年間から女性の持ち物として普及しました。
 傘作りは、傘骨作りから始まり、組合せ、傘張り、仕上げまで10以上の工程を職人の分業で行います。幕末の下級武士の手内職にもなりました。和傘は竹、和紙、漆、桐油・エゴマ油など再生可能な自然の材料を上手に利用しています。そこには日本の知恵がつまっています。
 幕末開港により西洋文化の輸入にともなってコウモリ傘が登場し、文明開化の服飾品となり、晴雨兼用のステッキとして、和傘より持ち歩きに便利なところから、和傘は次第に廃れました。

和鋏

昔の道具 和鋏(ワバサミ)
 鋏(ハサミ)は、日常的によく使われる道具の一つです。 形態としては、片刃のついた2枚の金属をねじでつなぎ、そのねじを支点に開閉して物を切断する洋鋏と、中間部がばねになっており支点が刃から離れている握り鋏(和鋏)とがあります。今では洋鋏が一般的になり和鋏はほとんど見かけません。
 和鋏は古墳時代後期に中国を通じて伝わったと考えられています。かつては布の裁断などの用途には伝統的に鋏ではなく小刀が用いられていたため、鋏の普及は限られていました。量産されるようになったのは江戸時代からで、一般庶民に普及したのは江戸
時代末期から明治中期です。その背景には、衣服の洋装化により従来以上に複雑な布の裁断が必要となったことが一因と云われています。
 皆さんのお宅でも裁縫箱や引出しの奥に残っているかもしれません。探し出して試してみてください。

藁縄

昔の道具 藁縄(わらなわ)
 縄は植物の茎や繊維をより合わせて細長く延ばしたもので、縛る、繋ぐ、吊す、あるいは運搬(提げる、担ぐ、背負う)などに用いる生活道具です。形態的は、紐より太く綱より細いものが目安になります。素材的には、縄とは稲藁を作った藁縄を指すことが一般的です。
 合成繊維が一般化する1960 年代以前、藁縄は荷造用材、帯、襷(たすき)、履き物、井戸のつるべ、たわし、椅子(いす)、簾、馬具、塗り壁に混ぜる補強材、籠、袋などと多くの道具に形を変えて、広く利用されました。藁縄はそのままで道具または道具の材料として、どこでも目にすることが出来ました。
 藁縄の原料である藁は熟した稲の茎を乾かしたもので、多くの加工品があり、その中で藁縄は最多量産品でした。伝統的には農作業の余業として夜間、農閑期(冬期)に他の藁加工品とともにつくって自給していました。縄ないの機械化は明治後期に始まり、昭和20年後期には動力式製縄機が登場し、藁縄がより広く用いられるのに寄与しました。古民家納屋に足踏み式縄ない機があります。

文化・歴史

育児散看板

Q:内蔵の奥に育児散の看板がありますが育児散とは?
A:小岩井家が幕末から昭和にかけて製造・販売していた小児用薬です。薬効として乳児の胎毒下しや蛔虫駆除などが記されています。「官許」とありますが現在で云えば「厚生労働省認可」に相当します。小岩井家に残されている文書によれば育児散の売薬の鑑札の申請に対して鑑札料と実印を持参して出頭するようにとの鎌倉郡役所からの通達がありました。また販売に際して貼付する印紙(現在の消費税に相当)を藤沢 税務署から購入し貼付し、かつ報告することが定められていました。
 奈良駅前の旅館から薬効が優れているので注文するハガキが残されており、当時は相当の評判を得ていたことがうかがえます。

石焼芋

Q:石焼芋はなぜ甘いの?(収穫祭での会話 石焼芋は他の調理したサツマイモより甘いように思うけれどなぜ?)
A:石焼芋は低温でゆっくり焼くからです。反対に電子レンジで調理すると十分な甘味が出ません。サツマイモの成分は水分が約75%、残りの大部分がでんぷんです。でんぷんは無味無臭でそのままでは甘味はありません。
 一方天然の甘味は庶糖(砂糖)、ブドウ糖、麦芽糖などによります。サツマイモの甘味を出すためにはでんぷんをこれらの糖類に変換しなければなりません。この変換はサツマイモに含まれるアミラーゼという糖化酵素によります。この酵素の性能は60~70℃で最高に発揮されます。石焼芋の窯の状態はこの条件に近く、甘い焼芋が出来るわけです。
 ところで、石焼芋は明治 20 年頃横浜市中華街付近で商売をしていた焼芋屋が始めたものといわれています。(田代)

囲炉裏文化

 囲炉裏文化について いろり守の会 宮本龍治
 日本の囲炉裏は、そもそも物の煮炊きに始まり、火を絶やさないで置火を保存しました。冬場は暖をとり、夕鮪を共にしながら一家団集の場として、または近所・親戚の人や親しい友人との語らいの場として発展しました。夜なべなどに明かりの役目も果たして、いぶした煙で萱葺屋根を保護し永持ちさせるなど、いろいろな効果を生み出す、先人たちが考えた貴重な遺産です。末永く継承していきたいものです。

お粥と雑炊

Q:七草粥の行事が行われましたがお粥と雑炊との違いがありますか?
A:粥は普通の飯より水分を多くして炊いた柔らかい飯をいいます。
 昔は、強飯(コワイイ)と呼ばれる蒸した飯が一般的で、釜で炊いた飯は粥と云われ、現在の飯は固粥、かゆは汁粥と区別しました。雑炊は飯に魚介類や野菜を加えて、みそ味などで炊き上げたもので、古くは増水と書きました。材料のかさを水で増やすという意味で、米の節約を目的としました。増水に野菜や魚介類などを加えるようになり雑炊の字をあてるようになりました。粥は口当たりがよく消化がよいので病人食や幼児食などに用いられ、料理屋などではイクラなどや香りのミツバなどを使ったものを食事として用いられています。現在ではお粥、雑炊の区別ははっきりしなくなっています。
 1月7日の七草粥や1月15日の小正月に食べる小豆粥などは行事食として用いられています。これは,祝と粥の音が同じ“しゅく”であることによると考えらえています。

鍛冶ケ谷村

 ふじやま公園古民家周辺歴史の概要 古民家歴史部会木島健司
 この地域は縄文中期 (BC2500)からの集落跡があり、近くから人面把手土器・桂台式土器など多数発掘され、横穴古墳が各所に散在し、古くから人が住まい生活して来ました。ここは律令制度が敷かれた奈良朝時代には公田として米を朝廷に献じていました。公田の単位を坪と言い今も一の坪・中の坪・柳の坪など地名が残っています。下って鎌倉時代には鎌倉の穀蔵とまで言われ上質米が生産されていました。又東の方猿田には7世紀半ばから9世紀半ばまで200年続いた大規模な製鉄遺跡があり、鎌倉の武器庫と言われています。
 又鎌倉幕府の庇護が厚い光明寺・證菩提寺が広大な寺領を擁し鎌倉の北の守りとして前線基地の役割が有ったとは思い過ごしでしょうか。證菩提寺の脇に西行坂があります。西行法師が奈良東大寺の大仏修復勧進に奥州藤原氏を訪ねる道すがら鎌倉で頼朝に会い、あえて山越えでこの坂を下り本郷を通ったは北の守りを偵察のためと推量するのは考え過ぎでしょうか。
 證菩提寺はこの古民家の小岩井家の菩提寺でもあります。これらに思いをいたし古民家をお訪ね下さい。

かまど生活

古民家の生活 かまど
 古民家には大きな「かまど」と小さな「かまど」があります。大きいほうはには三つの釜をかけて「かまど」と呼び、もう一つのほうは二つの釜をかけて「へっつい」と呼んだそうです。どちらも同じものですが、忙しい日常の中で呼び分けたのでしょうね。
広辞苑によると「かまど」の「ど」は場所を意味するとあります。また「かまど」は転じて、身代の意味もあるそうです。
 「かまど」の神は一般に男神とされる地方が多く、ひょっとこ(火男)もその一種の変形とされますが、子沢山の女神なので家庭を守ってくれるのだともいわれています。

茅葺屋根流派

古民家の茅葺き流派の概要 古民家歴史部会 田代真治
 本郷ふじやま公園の古民家の茅葺きは 前号で紹介いたしましたように筑波流の「茅葦屋根保存協会」が施行してくれました。茅葺きの流派は職人の出身地によって築波流・会津流・越後流・甲州流•紀州流・藝州流・丹波流・野川流(神奈川県)などがあります。
 このような流派によって使用する道具の形状、使い方、縄の留め方、材料の使い方、軒や棟・棟飾り、屋根面の曲線や刈り方、屋根の維持方法などに相違があります。
 これらの職人は、かつては冬季の出稼ぎでありました、関東では会津茅手が有名で、江戸中期にはよく知られ、戦前まで広範囲に葺き歩いていました。
 当時は農閑期の余業の中では最高の現金収入があり、重要産業でした。
 関東周辺の茅手は会津流の流れを汲んでいると云われています。
 茅葺き屋根の勾配は一般にかね矩勾配(カネコウバイ)45度、緩いものは8寸勾配
(38度)で、これ以下では水切りが十分でなくなり雨漏りが生じます。

弓道場

 6月19日(水)ふじやま公園の山頂の南側に位置する緑・豊かな「弓道場」に行き、管理、指導をしている鈴木さんにお話を伺いました。この弓道場は今年で8年になるそうです。

 この日は個人利用の日で、平日なので男性はお年を召した方が多く、皆、着物と袴と足袋を付け、練習に励んでいました。その中の若い女性の一人は、りりしい姿にあこがれて弓道をはじめたと話してくれました。日本の弓道は神事からおこっているそうで的まで28mあり、的の大きさは一尺二寸(36cm) 、真ん中の輪は6cmで、的は地面から9cmのところにありました。的の真ん中に当てるより、全体の型が大切。弓の長さは七尺三寸 (221cm)弦は正式には麻の蔓を使うそうです。試しにやらしていただきました。左手に弓を持ち右手で弦を右に大きく伸ばすのは結構力が要りました。

 現在の栄弓友会員数は164名(男子95名、女子69名)です。道場内はきれいに磨かれ花が飾っているのは皆が持ち寄ったものだそうです。体験教室や初心者弓道教室が年に2回開かれています。
(2008年7月15日発行:ふじやまだより第67号記事)

薬の製造

古民家の生活 薬の製造
 小岩井家では昔、小児用疱の虫の丸薬を製造・販売していて古民家の二階は薬草の乾燥室に使っていたそうです。この丸薬は大人の薬でいえば丁度小田原の「ういろう」にあたるようです。当時、神奈川県で幕府から薬の製造販売を許可されていたのは小岩井家と小田原の外郎家だけでした。
 「ういろう」は明に滅ぼされた元の陳外郎(ちんういろう)が伝えたといいますから、14世紀の頃です。効能書を見ると、胸腹痛から始まって51以上の症状に効くとあります。お菓子の「ういろう」も外郎家の二代目が作ったというのが始まりというのは面白いですね。
 また、小岩井家でその時栽培されていたと推測されるセリバオウレンという薬草が、数年前宮士塚の下で生えていたそうです。今は長屋門の前の薬草園でクコ、にわうめやくちなしなどが栽培されています。小岩井家では大分前に廃業されたそうです。

結界

Q:能管コンサートの時、舞台と観客席の境の竹製の柵は?
A:一種の結界(ケッカイ)です。結界とは仏教で一定の場所を決定して聖なる目的のために利用することです。「界を結する」の意で、自分の修行や何かの目的で修法を行う時に、その妨げをする有形無形のものが入って来ないように、その場所をなんらかの方法で区切ってしまうことです。いわばある種の力の及ぶバリアをきっちりと決めて、その力の邪魔をする他の要素が入って来ないようにすることです。神道では鳥居や注連縄、また道祖神なども結界と言えます。今では広く聖と俗、日常と非日常、舞台と観客席などの境を結する(形成する)場合に用いられます。茶道において留め石は顕著な例です。更には家屋の襖、障子、衝立、縁側、暖簾も結界と言えます。
 能管コンサートに於ける青竹で組上げた結界は舞台(彼岸)と観客席(此岸 シガン)を分けています。また年末餅つき会の臼の周りの笹竹と注連縄も結界です。

鯉のぼり

Q:鯉のぼりはいつごろから揚げるようになりましたか?
A:端午の節供に鯉のぼりを揚げるようになったのは江戸末期からと云われています。奈良・平安時代の端午の日は、災厄を避けるため軒に菖蒲やよもぎを挿しました。武家の時代になり戸外に武者絵幟や作り物の槍、長刀、兜などを立てるようになりました。

 江戸中期になると庶民の間から登竜門の故事になぞらえ、鯉のぼりが生れました。18 世紀の末頃から大きな鯉のぼりを立てることが流行り、浮世絵の題材に取り上げられるようになりました(左写真:歌川広重作)。明治以降都市部では武者絵ののぼりは衰え、鯉と吹流しだけを揚げるようになりました。鯉のぼりは明治までは紙製でしたが、木綿製になり現在は化学繊維製になりました。

五月人形飾り

Q:五月人形飾りの太刀と弓矢の位置は?
A:太刀は向かって右側、弓矢は左側です。五月飾りが鎧または兜を中心に飾付ける形式になったのは昭和以降です。江戸時代には厚紙で大きな甲を作り、木枠を背景に菖蒲太刀、武者人形、陣太鼓などと並べ更に粽・柏餅を供えました。武者人形には日本武尊、金太郎、牛若丸と弁慶、加藤清正、鐘馗などです。現在では兜と櫃または鎧櫃の背景に屏風または陣幕を立て前方に種々の人形、武具類、飾り馬を飾ります。太刀、弓矢や鐘馗はいずれも魔除けの役割です。
 ところで太刀と刀とはの違いは、太刀は長く反りが大きく、刃を下向きにし、紐や器具を使い腰に吊るして携帯します。刀は短く反りが小さく、刃を上向きにし、腰の帯に差して携帯します。飾付けの構成や並べ方を古民家に飾付けた五月人形でご確認ください。

五月人形の種類

Q:五月人形の兜飾りや人形がありますがどんな種類が ありますか?
A:武者人形と呼ばれる人形(ヒトガタとも)と甲冑を模した兜飾り・鎧飾りがあります。
 昔は武者人形に人気がありましたが、戦後からは兜飾り・鎧飾りが飾られるようになりました。武家の時代には男児の健やかな成長を願い、玄関前に幟や吹流しを立て、厚紙で作った武者人形や兜、紙や布に書いた武者絵などを飾りました。これが庶民に広がり五月人形や鯉のぼりを飾るようになりました。武者人形は鍾馗さまや金太郎など伝説や歴史上の豪傑をモデルにしたものや男児の健やかな成長を願った子供大将などがあります。

古民家の年中行事1

 古民家の見てきた年中行事の概要・其の一 古民家歴史部会
本郷ふじやま公面にある古民家(旧小岩井家の)が見てきに行事について。
結婚披露宴
 下座敷・中の間・広間の襖を取り払い使った。花婿・花嫁は下座敷の槍床の前に、招待客は両側に座った。披露宴は親戚と村の全員が招待され一日では終わらなかった。
講中
 鍛冶ヶ谷の東谷戸と西谷戸に別れて行われていた。
念仏講
 現在でも鍛冶ヶ谷の30軒程で続いており、色んなお寺の檀家の方が集まり、毎月一回順番で行っている。昔は食事を出したが、今はお茶で済ましている。以前は男性もいたが今は女性だけになった。
八幡様のお日待ちと祭礼 9月
 神主さんと宮惣代他20~3 0人が小岩井家で着替え宮参り後、小岩井家で食事をした。今は惣代5~6人でお宮で済ませている。
さいと焼き 1月14 日
 田圃の脇から道祖神を持って来て行った。道祖神は元の場所に戻した。今は「どんど」焼きといっている。

古民家の年中行事2

 古民家の見てきた年中行事の概要・其の二 古民家歴史部会
本郷ふじやま公園にある古民家(旧小岩井家の)が見てきた行事について。
雛祭り
 広間の神棚の下にお雛様を飾った。
端午の節句
 鍾き様を飾り、鯉織をたてた。
お月見
 お団子を作って、庭の柿と栗を添えて供えた。
餅つき 12月26日~27日
 三軒の家が集まり7~8人と下男が3つの竃を使い、石臼で揚いた。女性たちは鏡餅や四角いのし餅を作った。また、その場で食べる丸餅(大根下ろし、あんころ、黄粉を付ける)を作った。
門松
 門の両側に松と竹を一本づつ立て、注連縄を張り御幣を下げた。
火の神様、水の神様 (荒神様・水神様)
 正月3ケ日お祀りした。

古民家の年中行事3

古民家の見てきた年中行事概要・其の三 古民家歴史部会 木島健司
 本郷ふじやま公園の古民家が見てきた行事について
味噌・醤油づくり
 毎年家で仕込んでいた。醤油は本職の人が道具を持ってきて絞った。灰屋に蓄えて年数の古いものから使った。
お盆(8月13日~16日)
 各家が庭先で迎え火・送り火をしたが、小岩井家も同様であった。この家では盆棚を仏壇の前に置き、二本の竹を畳から天井まで立てて飾った。
屋敷稲荷
 風呂場の北東方向の山に少し入った所にあって、初午の時は使用人が供え物を藁に包んで供えた。登り道が崩れていて子供は近づけなかった。
節分
 豆撒き程度しか行わなかった。柊木(ヒイラギ)に鰯(イワシ)の頭を刺し、軒に付ける所もあるが、同家ではそのような習慣はなかった。

古文書とは?

 古民家歴史部会の活動の一つとして、小岩井家に残された江戸時代後期の古文書を読みとき、地域の歴史を知ろうとする会があります。月1回、小岩井家文書解読勉強会を開園当初から開いています。
 解読の対象になっている「古文書」はコブンショとは読まず、「コモンジョ」と読みます。狭義の古文書とは主に中世あるいは近世以前の授受の働きのある書付けを言います。甲から特定の乙に対して、甲の意思を表示して交付するものを「文書」と云い、それが本来の目的を完了した状態のものに「古」の文字を付けて「古文書」と称します。ちなみに特定の対象のない書かれたもの(例えば日記類)は「記録」と云って区別します。過去の時代の史料となる古い記録は「古記録」と称します。両方とも歴史研究の基本資料です。

 江戸時代には村方の行政や生活に関する文書が発生し現代に残されています。戸籍に相当する「宗門人別改帳」、租税に関する「検地帳」・「年貢割付帳」・「年貢皆済目録」、幕府や領主からの通達を記録した「御用留」などです。小岩井家にはこれらの文書が約2,300点あります。現在まで約180点を解読し、毎年古文書講座でその一部を横浜歴史博物館の学芸員の先生の指導で公開しています。また村政関係の文書18点を「相模国鎌倉郡鍛冶ヶ谷村 小岩井家文書村政編」として刊行しました(1,000 円で頒布しています)。勉強会に参加してみたい方は事務所までご連絡ください。

里山

Q:里山とはどんなところですか?
A:「里」というのは、大自然に対して「人の住むところ」をさします。これに対し、「里山」は大自然と人の住む集落との中間に位置する空間のことをいい、必ずしも山を意味しません。

 最近は環境省や農林水産省が「里地里山」を用いています。これは原生的な自然と都市との中間に位置し、集落とそれを取り巻く二次林、それらと混在する農地、草原などで構成される地域です。農林業などに伴うさまざま人間の働きかけを通じて環境が形成・維持されてきました。またこれは、特有の生物の生息・生育環境として、また、食料や木材など自然資源の供給、良好な景観、文化の伝承の観点からも重要な地域としています。
 ふじやま公園の古民家ゾーン以外の場所は、農地、炭焼き、市民の憩いの場所、更にはカブトムシの生息地として機能しており、まさしく里山であるといえます。

里山の炭酸ガス

Q:地球温暖化が問題になっていますが、温暖化の防止にふじやま公園の里山の森林はどれくらい役に立っているのですか?
A:温暖化は温室効果ガス、特に空気中の炭酸ガスの増加によってもたらされます。温暖化防止策は炭酸ガスの発生を抑制することと、植物による炭酸ガスの吸収です。植物は、光合成によって大気中の炭酸ガスを吸収して酸素を放出すると共に、幹や根に炭素を固定・貯蔵します。森林の光合成能力は樹木の種類、樹令、地味などによってかなり異なります。手入れされている杉林・広葉樹林(平均樹令 20年)の炭素固定速度は 2.5 トン/ヘクタール/年と云われています。
 本郷ふじやま公園の里山の植物が年間に炭素を捉まえ貯蔵する量は、灯油約26キロリットル(ドラム缶130本)を燃やしたときに出る炭素の量に相当します。手入れの不十分な森林や、樹令が40年を超えた樹木では、炭素の固定速度が低下し、更には炭酸ガスを放出する恐れがあります。
 このことから里山の手入れや管理は温暖化防止のためにとても大切なことといえます。

水琴窟

Q:日本庭園に最近設置された水琴窟はどんなものですか?
A:水琴窟(スイキンクツ)は江戸時代後期に庭師により考案された日本独自の音響装置です。地中に甕(カメ)を逆さに埋め天井に小さな穴をあけ、手を洗った水滴が、底の水面に落ち、水音が甕中に反響します。その音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。水琴窟は日本庭園の蹲踞(ツクバイ)や縁先の水鉢からあふれでた水を利用しています。
 この度、日本庭園に設置された水琴窟は蹲踞の水を利用しています。水鉢からあふれる水滴や手をすすいだ柄杓からの水で絶妙な音を聞くことができます。来園の際またはお茶席の時などお楽しみください。(2016年7月15日発行:ふじやまだより第163号より)

鈴虫の脱皮・羽化

Q:古民家の鈴虫の中に羽根が白いものもいましたが?
A:鈴虫の脱皮の直後の姿です。鈴虫の体は成長と共に大きくなりますが、皮は大きくなりまん。
 体に合わなくなった皮を脱ぎすてます。これを脱皮と云い、脱いだ皮は「抜け殻」です。鈴虫は土の中で10月から8ヵ月間、卵で過ごし、翌年6月初めに幼虫として生まれ、約2ヵ月で成虫になります。その間に6~7回の脱皮を繰返します。最後の脱皮を「羽化」と云います。この時には真珠色の羽が整いきれいな姿です。ところで抜け殻があまり見られませんが食べてしまうからです。鈴虫の鳴き声を楽しむ風習は平安時代の貴族の間で流行し、やがて一般庶民に普及し、江戸時代中期には「虫売り」が商売として成立しています。虫の音を楽しむのは世界で日本人と中国人だけとか。
 古民家では今年も鈴虫をお分けしています。鈴虫の鳴き声を楽しむ風流な習慣を広げるのに一助になればと思います。(2013年9月15日発行:ふじやまだより第129号より)

草履と草鞋

Q:体験教室作品展で展示されていた草履(ゾウリ)と草鞋(ワラジ)の違いは?
A:いずれもイネ藁、イグサその他の繊維を編んだ台部に鼻緒を取付けた鼻緒履物類です。いずれもかつては身近な履物として日本人の足に馴染んできました。草履は、鼻緒と台部の二部から構成され、草鞋は足をのせる台と踵うけとめるかえしと着装のための紐と紐を通す輪の四部からなります。
 草履は労働用・日常用の履物として広く着用され、台部の構造から裏無草履・ゴム裏草履などいくつかの種類があります。
 草鞋は一般に長時間の労働や旅行などの遠距離歩行のために使用されました。濡れた石の上や山道でも滑らない特徴がありますが、耐久性は低く、旅では1日1足が普通でした。江戸時代の鍛冶ヶ谷村の農民の副業に草鞋作りがありますが、東海道を行き来する旅人に供されました。

 草履は文字通り草の履であり、かつてはジョウリとも発音され平安時代の浄履と呼んだ名残です。草履は素足を保護し清浄に保つ生活用具でした。底が柔らかく、地面の感触が直に伝わり複雑な地面でもしっかりとらえることができます。神経が集中する足裏を刺激し血行を良くし健康を保つと云われ、布ぞうり教室は人気があります。

ダイヤモンド富士

富士山の山頂に太陽が重なる“ダイヤモンド富士”
 ダイヤモンド富士とは日の出か日没時に富士山の山頂に太陽が重なる瞬間の光景のことで年2回(各3日程度)気象条件がそろえば見る事ができます。日にちや観測地点により東京は2月、横浜は3月、4月には三浦半島とだんだんと南下して異なります。富士山に近い山中湖では湖面に映るダイヤモンド富士も見られることからマニアには人気のようです。当園では3月24日が必見です。そして2回目のチャンスは9月19日前後です。是非お見逃しなく~。

竹の花

Q:ふじやま公園の竹に花が咲いたそうですが、これからどうなりますか?
A:公園のマダケの花が昨年から今年にかけて咲きました。そして枯れつつあります。特に元大橋側が顕著です。竹は広義にはイネ目イネ科に属し、花が咲き実がなる種子植物です。
 しかし、種子で繁殖するのでなく地下茎が繁殖器官です。顕花植物ですが開花に周期は短いものは数年、長いものは100年以上と云われているはっきりしません。開花の時は全竹林が一斉に開花し、数年わたって栄養を使い果たしてほとんど枯死してしまいます。竹林と云われますが、地下茎でつながっているので竹林全体が枯れてしまうことになります。その後、種子からと残った地下茎から再生することがあります。ふじやま公園でもマダケの再生を期待しています。

竹ポックリ

Q:竹ポックリの名前の由来は?
A: ポックリは少女の履物の一種で、楕円形の下駄の台の底をくりぬいて、前緒の側に「のめり」をつけ、ふつうの下駄より高くなっています。台の表に畳表を張られ、側面は黒漆や赤漆で塗られています。ポックリの名前は履いた時の音からきたものです。普段履きではなく、晴れ着の時に履き、普通の下駄より目線が高くなり、大人になったように感じます。
 竹ポックリは節を残した直径10cmぐらいの竹を、長さ10cmほどの長さに均等に切って一組とし、節に近いところに穴を2ヶ所開けます。これに長さ1.5mのひもを通して竹の中側で結び、ひもを手で持ちながら竹に足を乗せて歩きます。高みを得られ、バランスを楽しめる遊具の一種です。
 ふじやま公園にある竹ポックリはボランティアの作品ですが、年代を問わず人気があります。余談ですが、小岩井家文書の中に御賞美筋一條之記に名主が雨天時に陣屋に行くとき,褒美として木履(ぼくり)を履くことを許すとの記述があります。

竹馬

Q:遊具としての竹馬はいつ頃から始まりましたか?
A:竹馬は2本の竹竿に適当な高さに足掛けをそれぞれ作り,これに乗って竹の上部を握って歩行する子どもの遊び道具です。室町時代流行した田楽に使用した「高足」という履物から変化したものといわれています。江戸時代から現在のように子どもの玩具になったことが江戸時代後期の守貞漫稿巻之二十八に紹介されています。高足のほかに鷺足とも呼ばれました。この高足系竹馬とは別に一本の生竹に紐を手綱ふうにかけて馬になぞらえ,これにまたがって遊ぶものも古くから竹馬と呼ばれました。やがて竹の下端部に車をつけたものに発達し「春駒」と呼ばれました。
 古民家ゾーン中庭にはボランティアがふじやまの竹で作った高足系の竹馬がいくつかあり、来園の子どもたちの人気を集めています。

端午の節句

 ふじやま公園では端午の節句の前後に、座敷に五月人形を飾り、中庭に鯉のぼりを揚げてお祝いをします。
◎由来と風習◎
 旧暦では午の月は5月にあたり、この午の月の最初の午の日を節句として祝っていたものが、のちに5が重なるこの月の5日が端午の節句の日になったといわれています。(「端」は物のはし、つまり「始り」の意)日本においては、男性が戸外に出払い、女性だけが家の中に閉じこもって、田植えの前に穏れを祓い身を清める儀式を行う五月忌み(さつきいみ)という女性の節句の風習があり、これが中国から伝わった端午と結び付けられました。

 また蓬(よもぎ)や菖蒲は邪気を払う作用があると考えられていました。今でも菖蒲や蓬を軒に吊るし、菖蒲湯(菖蒲を浮かべた風呂)に入る風習が残っているところもあります。
 鎌倉時代ごろから「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、また菖蒲の葉が剣の形を連想させることなどから端午は男の子の節句とされ、男の子の成長を祝い健康を祈るようになりました。

歳神様

本郷地区の歳神様(としがみさま)
Q:正月には各家に歳神様がやってくると云われますが本郷地区ではどのように祀りましたか?
A:歳神様は正月の一定期間に家々で祀る神です。正月様、若年さまとも云い、穀物特に稲の守護神とされています。また一年のはじめに家々を訪れ、子孫の祀りを受け、稲の豊作を約束する祖先神とも云われています。
 本郷地区ではかつて、年の暮れに神主が大神宮、歳神様と荒神様の御札を部落中に配りました。正月の神棚に大神宮と歳神様が祀られそれぞれに鏡餅が供えられました。門松は歳神様が迷わぬための目印です。
 歳神様は農耕神と共に人びとに一つずつ年をくれる神でもありました。歳神様へのお供え1月11日から13日の夜までにおろし、14日のサイト焼きで焼きました。

名主

Q:名主(なぬし)はどんな仕事をしていましたか?
A:名主とは江戸時代の村役人、いわゆる村方三役の筆頭で、中世の名主(ミョウシュ)に起源をもちます。江戸時代には石高制による領域支配の基本単位である「村」支配の代表者・長であり関東・中部地方では名主という場合が多く、関西では庄屋と云いました。。組頭の補佐をうけ、自宅を役所とし、領主の法令の下達、五人組・寺請制度を通じての村民生活の秩序を保ち、郷蔵を設け年貢など貢租の村民への割付け、徴収、保管、指定場所への搬送の責任をもちました。村民の願い・訴え・届けなどの願書作成・提出をしました。検地帳(控)など関係書類や共用品の保管・運用にも当りました。
 名主は当村出身の本百姓が就任しましたが、選任方法は世襲、交代、入札(いれふだ)など時代や地域によってまちまちでした。役職に対する報酬は名主給米といい、例として村石高四百石から六百石まで五俵でした。
 名主の身分は百姓ですが、小岩井家のように功績によって士分扱いになる例もありました。

ぬか袋

Q:古民家の板の間を磨くためにぬか袋を用いる効用は?
A:米ぬかは玄米を搗精(トウセイ)して精白米を作るときとれる外皮の粉砕物をいいます。大部分は果皮、種皮、糊粉層の混合物です。ぬかの発生量は玄米の 8%前後で、標準的な組成は水分14%、たんぱく質13%、脂質18%、糖質38%その他です。米ぬか油の原料、漬物や野菜のあく抜き、飼料や肥料として利用されています。
 ぬかを木綿地の袋に入れて木材をこすると米ぬか脂質中のオリザオイルや蝋分などが塗布・浸透して艶が出ます。米ぬかによる磨きは艶が出るだけでなく、汚れに対する保護作用があり、保湿効果もあるのでワックスのように滑りやすくなりません。浸透性があるため深みの
ある艶になります。
 旧小岩井家では、クリーンアップの皆さんが月2回、ぬか袋で茶の間の板の間を磨いています。

 先般、来園者に主屋について説明の際、同伴の小学生から囲炉裏を指さし「中の白い粉は何ですか」の質問がありました。半世紀前の暮らしは灰の出る暮しでした。灰は薪などが熱源であった時はどこの家に見られましたが、熱源が電気・ガスに変わって灰のでない暮らしになり、焚火も消防署に事前に連絡が必要になり、灰は姿を消しました。
灰は薪などが燃焼させたとき、あとに残った粉末であり、植物性物質中に含まれる不揮発性無機成分が強熱灰化したものです。灰の成分はカリウム、カルシウム、ナトリウム、アルミニウム、ケイ素の酸化物が半分以上です。灰は単なる残存物ではなく肥料
として今でも広く使用されています。以前は肥料だけでなく洗浄剤、染色、和紙、やきもの、醸造などに活用されました。農家では灰を灰小屋に貯蔵し、一部を売渡していました。江戸・京阪では灰を商売とする「灰買い」がいたことが記録されています。(画像は岩波文庫版「近世風俗志(守貞漫稿)」から) 江戸時代には川越の町に定期的に「灰の市」がたっていました。また、本紙前号で紹介したように灰は火を保持するのに大切な役割を果たしていました。
 古民家主屋には囲炉裏があり、灰が入っています。じっくり観察してください。しかし灰は飛散しやすいので気を付けてください。

雛人形の男雛の位置

Q:雛人形の男雛の位置は左右どちらが正しいのですか?
A:男雛の位置は左右何れも正しいです。大正以前の雛人形飾りは男雛が向かって右側ですが、昭和以降は男雛が向かって左側が主流となりました。
 古くは「天子南面、日出る方位高し」と言われ、天子が南側を向くと左側は日の出の東になり、左手は上位であることになります。左が上位の例として、明治以前の朝廷では左大臣が右大臣よりも高位であり、公卿のトップです。ところが昭和天皇の即位の礼の際、西洋式に従って天皇が向かって左側に立たれことから男雛の位置が変わりました。これが東京を中心に広がり関東雛と呼ばれ、伝統を守っているものは京雛と呼ばれています。雛人形飾りにも歴史や伝統がいくつも含まれています。

富士講

 本郷ふじやま公園の最高点に富士講の石碑が4基立っており、ここが富士塚であったことを示しています。富士講とは江戸時代後期から昭和初期まで、関東各地で盛んであった、富士山に登拝し、富士浅間の霊威を感得しその加護を祈願する信仰団体です。富士塚は信仰の聖地として各地に築かれました。一番大きな石碑の表には富士山の山形,富士山の信仰上の名称である「参明藤開山」や山主・先達の名前が刻まれています。裏には講紋が,台座には講中の主な人たちも名前が刻まれています。

 昭和40年初頃まで毎年8月1日に登山道・山頂の草刈りを行い、礼拝、飲食をし、出店も出て賑わったとのことでした。また千葉県の富士講中の人たちが富士登拝の途中にここの富士塚に参拝したとのことです。このように富士塚と富士講碑は地域の交流のある形を示しています。現在では里山部会の皆さんによって草刈や階段の整備がされています。
 古民家へ来園の際、富士講碑も是非ご覧戴き昔を偲んでは如何ですか。

富士講碑文

富士講碑文 参明藤開山の意味
Q:ふじやま山頂の富士講碑文「参明藤開山」の意味は何ですか
A: 本郷ふじやま公園のふじやま頂上に富士講の碑が4基立っています。その中で一番大きい石碑に「参明藤開山」の碑文が彫られています。「サンミョウトウカイザン」と読み、富士講での富士山の信仰上の敬称です。日と月(明)と富士(藤)の三つ(参)は一体だと云う富士講の教義を表します。
 富士講とは富士山に登拝し、富士浅間の霊威を感得してその加護を祈願する信仰団体です。古くからある山岳信仰と修験道の延
長線上に、更に江戸中期から盛んになった弥勒(ミロク)信仰を包含して関東を中心に発展しました。富士山まで登ることの出来ない講中の人のために各地に富士山を真似た富士塚が築かれ講碑が建てられました。
 昭和の初期まで旧暦6月1日の山開きの日には富士詣でが行われ、出店も出て賑やかだったと伝えられています。今も残る4基の石碑は往時の賑やかさのよすがを伝えています。だいじに残したいものです。

富士講碑文

Q:ふじやま山頂の富士講碑の碑文「小御嶽石尊大権現」の意味は何ですか?
A:本郷ふじやま公園のふじやま頂上に富士講の碑が4基立っています。その中で左側の石碑に「小御嶽石尊大権現」の碑文が彫られています。「コミタケセキソンダイゴンゲン」と読みます。この石碑は里山部会の皆さんが平成18年7月富士塚付近の草刈りを行っている際、頂上から少し北側に下がった斜面に横たわっているところを発見されました(ふじやまだより第43号)。小御嶽神社は富士山五合目に祀られており、石尊大権現は大山の阿夫利神社を指します。富士山登拝の際、小御嶽神社と大山をもお参りしたとされています。この石碑はふじやまの富士塚のこれらの形式を整えていること、関東大震災で富士塚が崩れ、この石碑が倒れたことの証となっています。

干し柿

Q:渋柿が干し柿で甘くなる理由は?
A:柿の渋味の正体は、果実中にある「タンニン」という成分です。タンニンがタンニン細胞から柿の果肉へ溶け出して渋みになります。甘柿はタンニン細胞の成長が7月ぐらいに止まりタンニンの溶け出しが少量ですが、渋柿はタンニン細胞の成長が止まらず、タンニンが果肉の水分に多量に溶け出し舌に渋みとなります。

 夏から秋にかけて柿の果肉内には糖分が増加し甘味を増します。渋柿では渋みが勝り渋い状態が続きます。渋柿で渋みが消えて甘味が増すのは、果実中の糖分の一部が酵素によってアセトアルデヒドに変化し、これがタンニンと結合してタンニンを不溶化するため渋みが無くなり、甘味だけが残るからです。アセトアルデヒド生成を促進する方法は柿の実の皮をむくこと、乾燥すること、炭酸ガスやエタノールの雰囲気にさらすことなどが昔から伝えられています。
 古民家の渋柿は皮をむかれて乾燥され渋みを少しずつ消して、約1ヶ月で甘い干し柿になります。干し柿は「甘さは干し柿を以って最上とする」と甘さの基準になるだけでなく、いくつかの薬効も知られています。

干し柿

Q:干し柿はなぜ皮をむくのか?
A:柿の皮をむくのは乾燥を速め、渋みを効果的に消すためです。柿の渋みは果実中にある水に溶けやすい「タンニン」という成分によります。このタンニンを水に溶けにくくすると渋みが消えます。皮をむき柿の実の乾燥を速めると、実の中の糖分が増加し、糖分の一部が酵素によって「アセトアルデヒド」と云うものに変化します。このアセトアルデヒドはタンニンと結合して水に溶けにくくし、渋みが消えることになり、干し柿は甘くなります。この結合物は黒い斑点になります。アセトアルデヒドは二日酔いの原因物質と考えられ、柿を食べると二日酔いが収まるのは、タンニンがアセトアルデヒドを捕まえるからです。
 古民家では今年も200個余りの干し柿を主屋の前に吊るしています。干し柿はたたずまいと味の両方を楽しめる、秋から冬にかけての日本的な風景です。

まゆだま飾り

Q:まゆ玉飾りの由来は?
A:小正月には、豊作を願って行う儀礼がいくつかあります。庭田植(ニワタウエ)、鳥追,成木(ナリキ)責めなどがありますが、まゆ玉はその代表的なものです。まゆ玉 はクワ、ミズキ、ヤナギなどの枝にまゆ形の団子や餅を数多くつけ、座敷・神棚・大黒柱その他に飾付けます。
 まゆ形になったのは養蚕が盛んになってからで、以前は餅や団子をちぎってつけていました。更には神を迎える依代として木片を薄く削って作った花のような祭具や、縁起物の千両箱、恵比寿、大黒、打出の小槌も飾ります。まゆ玉飾りは長野県から関東・東北地方に広く分布し、どんとの火であぶって食べたりします。江戸では庶民は元日に浅草寺などで買い求め、飾ったとのことです。
 古民家では、年末に青竹とヤナギの枝にまゆ玉やいくつかの縁起物を付け、正月中旬まで飾っています。

未成熟梅の毒性

Q:未成熟の青梅は毒だと言われていますが本当ですか?
A:いわゆる青梅、未熟果の果肉や、成熟した実でも種核(胚または仁とも云う)にはアミグダリンという物質が含まれています。アミグダリンは青酸配糖体のひとつで梅の果実に含まれている酵素(エルムシン)や人の消化管内で分解されてシアンヒドリンを生成し、これが胃酸で更に分解され青酸を生じ、中毒をおこす場合があります。100gの種の仁に、100~200mgの青酸分が含まれ、未成熟の梅を大量に食べると生命の危険があるということになります。梅の実が成熟すると果肉に含まれるアミグダリンが酵素と反応し、アミグダリンが減少し無毒になります。
 アミグダリンの役割は、種の保存とその身を守るため移動できない植物が未成熟の実を動物によって食べられないようすることで、自然の摂理です。生梅を食べることは避けるほうが賢明です。

味噌蔵

Q:古民家土間右手に味噌倉がありますが役目は?
A:味噌の一般的な醸造法は、大豆を水に浸したのち、蒸してつき砕き、米・麦・大豆などの麹と塩を混ぜてゆっくり発酵させます。空気を遮断された状態で、麹菌の働きによってたんぱく質からペプチド、アミノ酸、油脂からは脂肪酸、でんぷんからはブドウ糖(グルコース)などが生成され、これが独特の味と香りとなります。普通、仕込みを春から初夏に行い、ひと夏をすごして最低半年から一年して熟成し味噌として出来上がります。発酵には適切かつ変動の少ない環境が必要で、温度は30℃前後が好適といわれています。そのために相当の量を保存でき、温度変化が少ないいわゆる味噌蔵が必要になります。ここで1年から3年熟成させ、各家独自の味の味噌が出来上がります。相模では1年分が6斗という数字があります。

 旧小岩井家の味噌倉(蔵でなく倉)は大きさ半間×2間半の広さがあります。一時的な貯蔵場所であるとともに熟成を続ける味噌蔵の役目も兼ねたと思われます。

昔の遊び

 昔はどんな遊びがあったでしょう? 男の子は、紙飛行機、めんこ、ビー球、独楽回し、竹で作るスギ鉄砲、紙鉄砲、水鉄砲、竹馬、などなど・・・女の子は、折り紙、おはじき、おてだま、あやとり、いしけり、なわとび、等をして遊びました。
 いまから50~60年前はモノの無い時代でした。それでも、子供たちは‘‘遊びの天才”でした。身近にあるものを使って遊び道具をつくったものです。
 ビー玉やおはじきの代りは小石でした。きれいな小石を探して、川原や海辺をあるきました。また、夏には麦わらで虫かごや蛍かごを作りました。
 小学校の高学年 (4~5年生)になると、竹とんぼ、竹馬、わらぞうりなどは自分で作れるようになります。昔の遊びには“作る楽しみ”もあったように思います。

虫売りと虫篭

Q:スズムシを籠で飼い楽しむことは江戸時代にありましたか?
A:スズムシをはじめとして、マツムシ、カンタン、エンマコオロギなど鳴く虫を籠に入れて楽しむことは平安時代の貴族に行われました。やがてそれは庶民にも普及して行き、江戸時代の中期になると、裏長屋までも虫籠を釣下げ微細な音を楽しみ、"虫売り"が商売として成立しました、特にスズムシなどは飼育技術が高度に発達しました。スズムシの飼育や虫籠を作ることは御家人の手内職でした。虫籠は京阪の粗雑さに比べると江戸は精巧で扇形や船形など手の込んだものがありました。ところで虫の値段ですが明治40年前半でスズムシが6~7銭であり、もりそばが3~4銭でしたからかなり高価でした。
 鳴く虫を楽しむものではありませんが、当地域では昔から子どもの遊び子どもの遊びである蜘蛛の一種であるネコハエトリのオスを戦わせる「ホンチ遊び」がありました。今はほとんど見られなくなりました。

餅と餅つき

 ハレの日には、餅、赤飯、白米、尾頭つきの魚、酒などが飲食されますが、これらはかつて非日常的に飲食されました。餅はハレを代表する食物です。餅は生命力を与えてくれるものとして民俗学者の柳田国男が重視しました。お正月には鏡餅を歳神さまにお供えし、お雑煮を食べます。神仏と人々がともに同じものを飲食することは「神人共食」と云い、神仏とつながり、人々の結びつきを強めます。
 餅の名の由来は「糯飯」(糯米を使った飯)、持飯(腹にもたれる飯)、携飯(携帯に便利な飯)などの諸説があります。餅の文字は「正倉院文書」に見られ、室町時代には十月の亥の日に餅を食べると万病が治ると伝えられ、現在の餅の作り方はかなり古い時代からあったものと推定されます。
 餅つきは蒸した糯米を臼に入れ、杵で押し潰すように全体を捏ねてから搗きます。こねどり(手返し)は手水を付け、タイミング合わせて餅を返す。餅つきは苦もち(29日)や一夜持ち(31日)を避け28日か30日に行います。つきあがあった餅の形は、鏡餅をはじめとして丸餅や角餅、草餅、菱餅、柏餅などいろいろな形で節句や祝事のハレの日に登場します。
 古民家での餅つきは年末の休館日を避け、12月中旬の日曜日に市民の皆さんも参加して行っています。つきあがった餅は特大の鏡餅が槍床に飾られ、二色餅として来園者に提供され、人々の結びつきに一役かっています。

ラムネとサイダー

Q:真夏の竹工作まつりでは冷たいラムネが好評でした。その中での素朴な疑問 ラムネとサイダーとの違いは?
A:両方とも甘味料、酸味料、香料を加えた炭酸水で本質的には同じものです。ただし、ラムネは「玉ラムネびんに詰められた炭酸ガス入り飲料」と定義され、独特の形をしたビンによってサイダーと区別されます。
 ラムネは嘉永6年(1853年)ペリーの浦賀来航とともに日本にもたらされました。当初レモネードの名称でしたが、なまってラムネになりました。明治になって日本人の手で製造販売されるようになり、ラムネは日本で初めて製造された清涼飲料でした。
 サイダーは明治40年代に登場し、当時コレラの予防薬としてプームになりました。サイダーは発泡性と味が似ているシードル(Cidre フランス北部のりんご酒)が英語読み(Cider)になまったものと、言われています。どちらにも内容液量の4倍ぐらいの体積の炭酸ガスが溶けています。炭酸ガスは食欲を増進させたり、血行を良くする働きがあるとも言われています。

両替商の看板

 江戸時代は金(小判など)、銀(丁銀、小玉銀)および銭(寛永通寳など)という三つの基本通貨が併行流通した三貨制度でした。そして日本各地のたくさんの種類の貨幣が流通しました。多くの人にとって、真贋・品位の判定は難しく、おまけに実態は貨幣の流通量に応じた変動相場でした。このために貨幣を「商品」として扱う専門の両替商が生まれました。
 ふじやま公園にある看板は映画などでよく見る形とは異なりますが、やはり同じような機能を持った両替商の看板と思われます。風雨に晒されて木質はかなり傷んでいて歴史を感じさせます。

活況を呈した江戸時代の両替屋の店頭『元禄版塵却記大全』より。(「貨幣の歴史学」日本
銀行情報サービス局)

蝋燭の試作

 昔、小岩井家からどこかに献上するために蝋燭を試作したことがあるそうです。当時の蝋燭は「はぜ」の木から作ったのかもしれません。「はぜ」の木はうるし科の植物です。今でもふじやま公園の頂上に行く園路に5~6本あります。当時多くの人は、高価な和蝋燭はなかなか使えなかったようです。
 蝋燭の炎を見つめていると気持ちが落ち着きます。癒しの効果があるともいわれています。滋賀県にある和蝋燭の会社のホームページに依れば、今では「はぜ」は主に九州地方で採取されていて、「はぜ」100%の和蝋燭が一番きれいに燃えるそうです。